トラウマと社会変革――心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて/真鍋祐子
トラウマと社会変革――心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて
真鍋祐子(東大東洋文化研究所教授、社会学者)

※10・8山﨑博昭プロジェクトの東京集会(10月5日)の講演に加筆
皆様こんにちは。私は真鍋と申します。普段は大学の研究所で韓国の研究をやっておりまして、民主化運動の中で抗議の焼身自殺を遂げたり、デモの最中に機動隊に殴り殺されたり、あるいは圧死させられたとか、そうやって犠牲になった人たちの遺族会でこの30年間、聞き取りを中心とした研究をやらせていただいてきました。
今現在は、ある遺族が遺された日記の調査に取り組んでいます。1987年6月に6月抗争と呼ばれる民主化への闘いがありまして、その結果大統領直接選挙だとか、集会や言論の自由だとか、今後はそういったものを国民の権利として認めるとして、学生や市民の反独裁運動に折れた軍部独裁政権が「民主化宣言」という形で87年の6月29日に出すんですけれども、その一つの大きなきっかけになった朴鍾哲(パク・ジョンチョル)水拷問事件というのが87年の1月に起こります。
学生運動に関与して後方から支援していた朴鍾哲というソウル大の学生が、学生運動幹部の先輩の居場所を問いただす目的で警察に連行されて、自白を強要される中で水攻め拷問で亡くなるんですね。その犠牲の死が導火線となり、全国的に軍事政権打倒のうねりが起こってきて、先ほど述べた民主化宣言を経て、今のように大統領が直接選挙で選ばれる、そういう民主主義国家に変わったという非常に重要な事件だったんです。その朴鍾哲さんのお父さんが、翌年からつけ始めた日記があって、これは20年にもわたる記録なのですが、私はご遺族やその関係機関の方たちからの快諾と協力を得ながら、昨年夏から定期的に韓国に通って、その日記の資料調査を進めているところです。
私の関心はトラウマというものが社会変革にどのような役割をしてきたかという点にあります。とりわけそのお父さんの日記からうかがえるのは、自分の息子を失って非常にひどいトラウマ的な状況に置かれながらも、やがて遺族会としての活動を超えて広く普遍的な人権運動と拡がっていく、そういうプロセスです。重度の心的外傷に苦しみながらもそれを受容し、やがてその経験によって逆に闘いが強靭化される(臨床心理学的には心的外傷後成長と呼ばれる現象)という状況に着目しています。私は日本の近現代史は専門ではないのですが、日本とどこが違うんだろうなといつも思いながら、韓国の民主化運動の歴史を見つめてきました。今日はそういう立場からのお話となります。
1.12・3非常戒厳に抗った力の源泉は「トラウマ」
韓国では、特に昨年末、非常戒厳令というのが突如発表されて、本当に大変な状況でした。この非常戒厳令という出来事に関連させながら、民主化運動の歴史を通して心的外傷後を生きてきた韓国社会というものを見ていきたいと思います。
韓国では日付による出来事の呼称がよくなされます。尹錫悦による非常戒厳令の宣告が12月3日だったので、「12・3非常戒厳」というふうに呼ばれています。これに抗った人たち、国会議事堂めがけて多くの人が駆けつけた様子だとか、あるいは一人の女性が戒厳軍兵士の前に立ちはだかって銃を奪い取ろうとした、そういう映像が日本のメディアでも流れてきて、皆さんもご覧になったかと思います。そしてあの状況を見ながらきっと「韓国の人たちはすごいな」と皆さん思われたと思うんですが、あのような非常事態に抗った力の源泉というのは、これはもう紛うことなく「トラウマ」なんですね。
韓国で非常戒厳令が最後に出されたのは80年の5月17日です。60年代70年代を通じて軍事独裁政権を率いた朴正煕(パク・チョンヒ)が72年の十月維新で事実上の大統領終身制を敷いていたのですが、79年10月26日に部下である金載圭(キム・ジェギュ)というKCIAの部長によって暗殺され、その後12月12日に軍部の中で全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる一部の軍人たちが「粛軍クーデター」を起こして実権を握ります。彼らは自分たちの軍隊がこれまでの朴正煕を中心としたものとは全く違う新しい存在だということを強調するために「新軍部」を名乗ります。この新軍部によるクーデターが12月12日に起こり、さらに80年5月17日にこの非常戒厳が全国に拡大される。これが韓国で最後のクーデター、非常戒厳令だったので、まさに40年以上の時を隔てて突如、非常戒厳が出されたということになります。
それだけの時間の隔たりにもかかわらず、あの12・3の時に、真冬の深夜にもかかわらず国会議事堂に集まった人たちは、どうしてそのような行動を起こせたのか?
現在の韓国で現役世代の方たちには、その40数年前の記憶というものがまだまだ生々しく残っています。非常戒厳令を許してしまうとその後どんなことになるのか、それはもう歴史が証明してくれています。80年5月17日の非常戒厳全国拡大の後に起こったことが、あの光州での10日間にわたる殺戮劇だった。そして国防部からの一方的な情報に欺かれて光州での暴虐を傍観してしまったことで、その後長きにわたって韓国社会で人々がどのような生活を強いられたかといえば、全斗煥が光州を捨て石にして実権を握ったことで、むしろ朴正煕時代よりも酷い軍事独裁の暴政が待っていた。これが87年まで続くわけです。
ただし、民主化宣言によって大統領を直接選挙で選べるようになったとはいえ、それによる最初の選挙で当選した大統領は盧泰愚(ノ・テウ)というやはり新軍部出身の人で、全斗煥とともに光州への暴圧を指揮した側でした。つまり形の上での民主主義制度が整えられたといっても、実際に軍事政権は盧泰愚政権が終わる92年まで続いたわけなので、80年5月17日の非常戒厳を許したことが、ようやくあの朴正煕時代が終わって「ソウルの春」、つまり民主化の兆しがあったというのに、その後12年にもわたり、さらなる軍事独裁を許してしまうことになった。そういう悔恨の経験にもとづく歴史のトラウマを抱えているがゆえに、歴史の逆行をなんとしても食い止めなくてはと、みんなが国会議事堂に集まっていき、国会議員たちを塀をよじ登らせて国会に送り出し、なおかつ戒厳軍の兵士を食い止めようというふうな行動に走ったということが言えます。これは非常戒厳令のニュースに接しての瞬時の判断力であり、瞬発力です。
国会議事堂へと走った人たちというのは、もれなく国会議事堂の上を旋回する戒厳軍のヘリコプターの轟音を聞いたときに、光州の記憶がフラッシュバックするわけですね。80年の5月18日に光州に戒厳軍、さらに空挺部隊が動員され、それに抵抗し銃をとって市民軍を結成した人たちは、27日未明の空挺部隊による機銃掃射で制圧され、壊滅させられてしまいます。その悲惨な記憶というものが、同時にパパッとフラッシュバックする。それがゆえにこれをなんとか食い止めねばと行動を起こした市民たちがいて、国会議員たちがいた。つまり非常戒厳を食い止めたのは、多くの人々が抱えていた光州に対するトラウマがそうさせたのです。同時に、この出来事がトリガーとなって、具合を悪くする人もたくさんいたそうです。光州には光州トラウマセンターという医療機関があります。光州民主化抗争によって様々に受けたトラウマ、あるいは光州民主化抗争後に囚われて、そこで受けた拷問などによってその後遺症で苦しんでいる人たちが本当にまだまだ大勢いらっしゃるし、とりわけ女性の場合、拷問の時に性暴力を受けている。こういう人たちはもう本当に自分では言い出せずに、ずっとトラウマを抱えて生きてきました。そういった方たちのケアをするために、光州トラウマセンターというのが2012年に開所するんですけれども、12・3以降、訪問相談が84件、電話相談42件が寄せられたという現地報道が出ています。レジュメに挙げたのは安田菜津紀さんの記事(https://d4p.world/31770/)なんですが、そこに登場するヨンスンさんという女性は光州民主化抗争の時に捕らわれて、性暴力を含む拷問の被害に遭われた方です。記事によれば「ヨンスンさんも不眠や不安症状に長年悩まされてきたが」、つまり40年以上にわたりですね、「戒厳宣布は、より当時の記憶を鮮明にさせ、とめどなく怒りが溢れたという」。こういう報告を安田さんが書かれております。
2.「死者が生者を生かす」(ハン・ガン)とは?
ちょうど非常戒厳が宣布された時、韓江(ハン・ガン)という作家がノーベル文学賞を受賞しました。ちょうど授賞式のためにノルウェーに行っていて、そこでそのニュースに接したかと思うんですが、「死者が生者を生かす」という韓江さんの言葉は日本でもメディアなどで盛んに取り上げられたという記憶があります。この言葉に感銘を受けて多くの方がSNSとかで拡散しているのを私も見かけたんですけれども、ただこの言葉を額面通り、字義通りにだけ受け止めると、裏を返せばとても危険な言葉かなというふうに思います。昨日自民党総裁に選出された方も、靖国の英霊のおかげで今の日本があるみたいなことを盛んに言っている人たちの1人だと思うんですが、この韓江の言葉を字義通りに受け止めてしまうと、たやすくそうした靖国史観に絡めとられてしまう。だけど実際は、これはそんな薄っぺらい意味の言葉ではないのです。
戒厳撤廃への俊敏な命懸けの行動は、光州の犠牲をむだにしないという市民や政治家たちによって動機づけられ、それは確かに死者が生者を助けたのですけれども、靖国を語る人たちのような観念とは明らかに異なります。あの人たちが言う「英霊」という言葉には、死者とは何かというのが全くない、空っぽの観念でしかない。死者が主語として語りの中に生きていないからです。韓江の言葉はそうした単なる観念ではなく、死者が生者を生かせるようになるまでには生者の側が、死者を死者として生き返らせる、死者を2度殺させないためにおびただしい犠牲を払いながら、民主化闘争を闘ってきたという、実際に血が流されたいくつもの出来事の厚みがあるのです。ここの部分をもうちょっと多くの方に知ってもらいたいなと思っているわけです。
この「死者が生者を助けた」という韓江の言葉、そこに至るまでの時間の中に、実は1人1人の死者を記憶して、そして語り継ぐというプロセスがあります。この「記憶し語り継ぐ」というのは簡単なようですが、やっぱり独裁国家では全く簡単なことではなくて、口にしただけで流言飛語だと言われたりとか、本当に声を潜めて語らなくちゃいけない。だから光州抗争のことを5・18(オーイルパル)、済州島(チェジュド)で起きた事件のことを4・3(サーサム)などと暗号のように言いますけれども、そういうのも、かつて声を潜めて語らざるを得なかった歴史だった、という一つの証明になるんですね。
この1人1人の死者を記憶し語り継ぐということで言うと、二つほどスライドを準備してきたんですが、向かって左側のものは、民主化運動で犠牲になった方たちの遺族会が作ったもので、これは金大中(キム・デジュン)が大統領になってすぐの頃に、民主化運動で犠牲になった者たちの名誉回復をしてくださいという、キャンペーンのために作った絵葉書です。
朝鮮半島全体に顔が埋め尽くされてますけど、これは全部犠牲者の顔写真ですね。この葉書を使って、大統領に嘆願のメッセージを入れて投函してくださいというので、これが配られていたんですが、こんな具合にですね、こういう死者たちというのは国是に背いた「アカ」「容共分子」といったレッテルを貼られて無かったことにされかけている、そういう人たちなんですが、あえてこの人たちの顔写真で地図を埋め尽くしてこれを見よと言わんばかりに、キャンペーン葉書の図案が作られている。また右側のスライドですが、これは2020年の4月16日にSNSでたくさん拡散されましたけれども、この正方形の中に記されているのはセウォル号沈没事故で亡くなった高校生たちの名前ですね。4・16というのは2014年の4月16日にセウォル号事件が起きた日のことで、上には「名前を呼びます」と書かれています。下の方には「決して忘れられないその日。1人1人の名前を呼びます」というふうに書かれています。この図案はセウォル号で犠牲になった高校生たちの名前を並べて構成されてるんです。1人1人の名前でデザインされたものですね。あの真ん中の黄色は黄色いリボンで、セウォル号遺族たちの闘いの一つの象徴となるもので、こういうデザインのものが作られている。
このように死者が生者を助けられるようになるまでには、まずは無かったことにされようとしている死者たちを何とか生き返らせる、それで死者を死者としてきちんと生かしたいという闘いが、ものすごく長きにわたって闘われてきたわけなのです。私はそのことを広く知っていただきたいなというふうに思ってるんですね。
ちょっと前に、SNSで高橋博子さんという歴史学者で広島の被爆者の問題とかを研究なさってる方の投稿を見かけたのですが、高橋さんは「体験の継承」というフレーズに違和感を覚えるというふうにおっしゃっていて、なるほどなと思ったんですね。「体験を継承する」という言葉を聞くと何だかわかったような気もするけど、よく考えてみたら何をどう継承するのかわかんないですよね。どういうことなの? 「体験を継承」というのは? ただ語り部さんの話を聞いて、何かそれを心に留め置いて、また語り部さんから聞いた話を自分が他の人に語り伝えてという、せいぜいそのぐらいしか私には思い浮かばないんですね。そうなると、その「体験」の内容は伝言ゲームではないけれど、いつのまにか風化したり変質したりするのではないか、それを「継承」するというのは矛盾ではないのかと。しかし考えてみると、韓国の民主化闘争の場面では「体験の継承」というフレーズはまず出てこなくて、彼らが常套的に使うのは「精神の継承」という言葉です。
「体験の継承」と「精神の継承」というのは何だか同じようなこと言っているようで、実は全然違うんじゃないかと思うんですよ。「精神の継承」というのは、犠牲になった死者たちが、いかなる精神の故に犠牲になったのか、いかなる精神をもって死もいとわず闘いの先頭に立って命がけでやったのか、ここを問いかける、そういう言葉なんですね。本当のところは死者にしかわからないから、生者たちは永遠にその「精神」が何なのかを問い続けることになる。
だから「精神の継承」と言う場合、それはこれを継承しようとする者たちに一つのエートスを与える、弁証法的な運動へと動機づけていく、そういう言葉じゃないかなというふうに私は思っています。韓国で死者が生者を生かす状態に至るまでの、日本ではほとんど見過ごされているこのプロセスには、死者を生かすために自ら犠牲となった無数の生者たちの生き死にがあり、そしてその一人一人に対して「精神の継承」ということが言われてきた。それがさらに人々を内面から駆り立ててきたという、そういう背後があったということを、多くの人にご理解いただきたいなというふうに思っています。
次に、尹錫悦(ユン・ソンニョル)の戒厳事態というのがどういう背景のもとでなされたかについてです。これは「東アジア地域秩序における韓国現代史と国家テロリズム」をめぐる概念図としてレジュメにも載せましたけど、これは私が暫定的に作った図式で、徐勝(ソ・スン)先生、纐纈(こうけつ)厚先生や、日立就職差別を闘われた朴鐘碩(パク・チョンソク)さんなどの論文を参照しながら作ったものです。
先ほど山本さんのお話にもあったように、戦後の冷戦体制下でアメリカは米中関係を主軸とする東アジア地域秩序を構想したのですが、中国で革命が起きたため急遽、日本をパートナーとするべく方針転換をします。そうして日米同盟を軸とした東アジア地域秩序を確固たるものとするために、韓国を冷戦の緩衝地帯として分断状態のままにし、他方で朝鮮戦争による特需景気で日本の戦後復興を後押しし、その後もベトナム戦争によって経済発展を促しました。しかしこうした東アジア地域秩序を成り立たせるためには、韓国や台湾を日米同盟の下位に位置づけて、これを国際政治だけでなく経済的にも下支えするいわゆる「親日国」でいてもらわなくてはなりません。当初アメリカがもくろんだ米中同盟だったら、そうした矛盾は起こらないのですが、韓国や台湾、あるいは東南アジアの国々もですが、日本による植民地被害、戦争被害を受けた国の人々が絶対に親日であるわけもないのに、それでも親日であることを強いられた。これに抵抗する人々を抑え込むために親米・親日の独裁政権が仕立て上げられ、君臨してきたのです(同様のことはラテンアメリカでも行われました)。つまり東アジアにおける国際的な冷戦構造の中で、周辺軍事主義化させられた台湾や韓国は国内的にも冷戦を強いられました。民主化を求める者たちや支配勢力に抵抗する者たちに対しては「アカ」の罪状が被せられ、いかんなく国家テロリズムが振るわれ、そして末端では民主化弾圧が行われたのです。私が研究の対象としてきたのは70年代以降の韓国におけるそこの部分なんですけれども、尹錫悦の戒厳事態がいかに起こったかを理解するには、そうしたマクロな視点が必要不可欠と思われますので、この東アジア地域秩序の概念図をこっち(PPT)にも引っ張ってまいりました。
つまり、この戒厳事態というのは、分断に起因する国家テロリズムの文脈で捉えるべきで、あれがもし成功していたとしたら、続いて途轍もない国家テロリズムが振るわれ、民主化を求める市民に対して武力弾圧が振るわれていただろうというふうに言えるわけです。
朴槿恵(パク・クネ)の時だって、後になってわかったのは、戒厳軍を出動させる計画になってたんですよね、2016年のろうそくデモの時に。あれは未然に、そうする前に大統領が罷免されたので事なきを得ましたが、でもひょっとしたら、あの時に戒厳軍が投入されて、第二の光州のように光化門広場がなっていたかもしれない。常にそういった危険性をはらんでるのです。
尹錫悦の場合も、あれがもしうまくいっていればそういう結末になったであろうと想像してみる必要があります。あの国会議事堂前を埋め尽くした人々にとって、それがどれほどの恐怖であったかを。「戒厳事態を食い止めた韓国、すごい」だけじゃなくて。
ただし、これは韓国だけの問題、国内問題というのではなくて、日本にも責任の一端があると思っています。敗戦後日本が自分の手を汚さずに経済成長をなしとげ、また韓国への賠償を投資・経済援助と読み替えることで旧宗主国意識を温存したまま、アジアの中で独り勝ちするという、それは「日本すごい」ということでは全然なくて、実は韓国のこうした事態に対しては日本にも歴史上責任があるだろうと私は考えています。日本が無条件降伏をずるずると引き延ばさなければソ連が参戦することはなく、朝鮮は分断を免れたかもしれない。光州民主化抗争に関しても、全斗煥政権を日本はアメリカの背後で追認し、その結果、国家テロリズムが吹き荒れるのを傍観した。そうしたことへの責任の一端があるだろうと受け止めてもらえたらなと思ってます。
同時に朝鮮近代史とは、当然ながら当時の朝鮮は日本の植民地で、大日本帝国の一部だったわけですから、朝鮮近代史とはイコール日本近代史なわけですよ。例えば、済州島(チェジュド)の4・3事件、後で触れますけれどもその4・3事件に関連しても言われていることですが、沖縄戦の後には、実は済州島を本土決戦までの時間稼ぎのために使おうというふうに日本は考えていたわけです。
そのために済州島の人たちを酷使して空軍機の滑走路を作らせたり、壕を掘らせたりとかして多くの人命が使い捨てにされました。そのようなわけで済州空港の滑走路には多くの遺体が埋まっていて、それらが発掘されてDNA鑑定で身元が判明したのも割と最近のことです。また、日本軍のために掘らされた壕が、その後は4・3事件の時に住民が討伐隊から身を隠すための壕となり、また集団虐殺の現場ともなりました。このように朝鮮の近代史というのは、実は日本の近代史と繋がっておりますし、例えば4・3事件は韓国の済州島で起きたことだからと、これを外国史として突き放して見るのではなくて、日本史として捉えなきゃいけない。とりわけ戦後はそれぞれに主権国家が作られて、その歴史も全く別物のようではありますけれども、しかしこの東アジア地域秩序の中で韓国現代史あるいは台湾もそうですが、これは日本の現代史と合わせ鏡という位置づけで、もっと俯瞰的に見ていく必要があると思っています。
3.国家テロリズムによる心的外傷後を生きながら
このように暫定的に作成した東アジア地域秩序の概念図の中で、韓国社会というのは実は国家テロリズムによる心的外傷を数えきれないほど負わされて、そしてその心的外傷後をずっと生きてきたのではないかと思っています。そのこともレジュメにまとめていますが、具体的な出来事、主なものだけですが挙げておきました。
まず、先ほどからお話している済州島、チェジュと呼びます。これは1947年から54年にかけて断続的に続いていった虐殺事件ですね。4・3というのは1948年の4月3日という事件の発端となる日付にちなんだ呼び方です。1948年に、45年から朝鮮をソ連と分割統治していた米軍政が南朝鮮だけで国を作ろうとしたんですね。当然、38度線から北のソ連が統治してる側の動きを睨みながらです。同じ48年の9月9日に朝鮮民主主義人民共和国ができるんですが、そういう動きの中で自分たちも共産主義に対抗する緩衝国家となる国を大急ぎで作らせなくてはということになり、それで南半分だけでの選挙をやろうとするんです。その時に済州島だけが、投票者数が規定に届かなくて選挙が無効になったんですね。済州島に三つある選挙区のうち二つの選挙区で選挙が成り立たなかったんですよ。その頃の済州島では南朝鮮労働党の人たちが日本敗戦後の国家建設のためにいろいろ活動したりしていたので、そういうのを「アカ」として討伐する名目で、48年4月3日に初めて米軍主導下で討伐隊が済州島に投入された、これが4・3のいわれです。
でも実際には47年3月1日の3・1節の集会で軍警に抵抗した人々の中から犠牲者が出るという事件があり、済州4・3といえば48年4月3日ですが、それは事実上、47年3月から始まっており、その期間は47年から54年までとなります。54年というのは討伐隊に抗戦していた武装隊の最後の1人が殺されたのが54年だったんですね。済州の悲劇とは、多くの人がまず討伐隊によって無差別、無慈悲に殺戮されたことです。色分け論で「こいつはアカだ」と言われたらそれで「アカ」だという、そういう感じで理不尽になぶり殺しにされることに対し、人々が武装隊を結成して抵抗し始めるというのは、光州の場合も同じです。最初に一方的な色分け論で権力側からの非人間的な殺傷・殺戮があり、それに対する抵抗として人々が銃を取って武装隊、光州では市民軍を結成する。そうした動きの始まりが済州4・3です。
そうした戦乱のどさくさの中で、とりあえず大韓民国の政府が樹立されたのが48年の8月15日です。無理やりにでも国家建設を急がなくてはならないのですが、日本による長期の植民統治だとか日本が起こした戦争だとかで人材が払底していて、さらには解放後、北朝鮮に渡ったり拉致されたりした知識人も少なくなかった。このように国家建設に資する人材が足りないものだから、米軍政は日本が残した箱物はもちろん、教育制度、軍隊、警察など多様なソフト面でも大日本帝国の遺制をそのまま引き継がせたのです。また日本統治時代にいわゆる親日派と呼ばれた人たち、つまり日本の植民地勢力にコミットすることで同胞を支配する側に立ち、それで利益を得てきた既得権層をそのまま新しい国家の人材として温存した。これが現在、いわゆる「親日積弊」と呼ばれているものです。だから大韓民国という国の成り立ち以降、それに抵抗する人たちは当然いるわけですよ。やっと日本が負けて解放されたのに、自分たちの自前の国を作る、自分たちでその過去を清算して、自分たちの手で理想の国家建設をやりとげるという、その希望が全く踏みつけにされた。かつての日本官憲がそのまんま朝鮮人に入れ替わっただけで、支配―被支配の内実は全く何も変わってないんですね、システム自体は。そうした現状に対する批判と抵抗に対して、初代大統領となった親米派の李承晩(イ・スンマン)が、国家保安法というのを48年に作ります。これは政権に反対する勢力を権力者の胸先三寸でいくらでも逮捕し、「アカ」の罪名をかぶせ、拷問にかけて政治囚に仕立て上げ、処刑することさえできるもので、これまで数えきれないほどの冤罪や不審死の温床となってきました。韓国では今もまだその撤廃をめぐって政治的葛藤がくり広げられていますが、分断体制にある限り事は簡単ではありません。
国家保安法は、実は日本の治安維持法を下敷きにして作られたものでした。日本は敗戦後、治安維持法はフェードアウトしましたが、韓国の人々はその亡霊である国家保安法にずっと呪縛されてきたわけです。ここにざっと挙げた主なものだけでも、色分け論と国家保安法に絡んだ事件はたくさんあるんです。
麗水・順天(ヨス・スンチョン)抗争というのは、これは済州島に討伐隊を送るのに、全羅南道の麗水に駐屯していた軍隊を出動させようとして、それに一部の軍人が抵抗して反乱を起こしたのが部隊全体に及び、やがてその動きが隣接する順天にも拡がった事件をいいます。反乱軍は鎮圧部隊によって弾圧されますが、そこで虐殺された中には多くの民間人も含まれていたとされます。ところがこの出来事はずっと埋もれさせられてきた過去として、いまだに韓国では光が当たってなくて、真相究明がほとんどなされていない事件ですね。
続いて朝鮮戦争へと、いわゆるイデオロギー内戦の時代が続きます。
さらに1960年には4・19学生革命が起こります。大統領選挙での李承晩による不正選挙に対する抗議デモに参加していた高校生が催涙弾で頭を打ち抜かれ、重しを付けられた姿で海に遺棄された、その遺体が上がったことで、火がついたように全国に抗議デモが広がり、その中でもたくさんの方が犠牲になっています。
さらに60年代から80年代にかけても、もう本当に数限りなくいろんな出来事があるんですが、やはり大きいのは80年の光州民衆抗争への流れですよね。韓国で民主化運動という場合、忘れてほしくないのは、これはただ民主化を求める運動というだけではないんです。これは光州抗争以降、その真相究明と責任者処罰とそれから犠牲者に対する名誉回復およびしかるべき賠償ですね、この3点セットを求める運動が民主化を求める運動とセットで闘われてきた、ということなんです。そこを忘れると、「日本だってやればできる」という話になるんですね。2016年にろうそくデモが盛んだった頃、日本でも集団的自衛権などに反対する若い人たちが国会前を埋め尽くした時、「韓国がやれるんだから日本だってできる。日本の方が民主主義の先輩だし」みたいなことを著名な映画評論家が新聞で書いてるのを読んで、私はとても不快に思ったんですけれども、そんなもんじゃないですよ。韓国民主化運動の歴史を馬鹿にするなと思いました。
ただ戦争が嫌だとか、そういうレベルの話ではなくて、韓国の民主化運動は一貫して死者をきちんと死者たらしめるために、無かったことにさせないために、済州島で何があったか、光州で何があったかという真相究明をしろという運動であり、それにもとづいて責任者をきっちり炙り出して処罰しろという運動であり、犠牲者に対してはきちっと名誉回復して国家賠償せよという、これを求める運動とワンセットで闘われてきました。2016年当時でいえば、セウォル号沈没事故に対する真相究明運動とセットになって、朴槿恵政権に対する反政府運動が盛り上がったのです。
冒頭でお話しましたが、87年には朴鍾哲というソウル大生が拷問で亡くなった。民主化を求める運動はこの事件をきっかけとして6月抗争へとなだれ込み、そして光州に関連しては88年の10月に初めて国会聴聞会が開かれますが、この時まで光州の出来事はまだ公に語れない話だったんですね。徹底した情報統制のために無かったことにずっとされてきた。「光州では容共分子が暴動を起こした」というふうな報道がずっとなされてきて、光州での真相云々っていう話はなかったんです。したがってこの80年から88年までの期間というのは、是が非でも光州の真相を明らかにせねばという思いで、ただどこのメディアもこれを報じることができませんので、やむなく自分の体に火をつけて自分自身をメディアにしてビラを撒き、スローガンを叫びという、そうした抗議の焼身自殺がめちゃくちゃ続いたんですね、この80年から88年にかけて。
そういう時代をずっとすごす中で、韓国の人々には深刻な心的外傷が刻まれたと思います。私と同世代の人たちに話を聞くと、学生集会に出ていたら目の前で演説をしていた学生がいきなり頭からガソリンをかぶって火だるまになり、スローガンを叫びながらだんだんとその声が途切れていき、バタッと崩れ落ちていった、その一部始終を目撃したとか、学生会館の屋上で自分の体に火をつけて投身自殺をした学生が、火だるまになって自分の真横にドスンと落ちてきたとか、そういう経験を語る方が結構います。やっぱりそれ自体、めちゃくちゃ心的外傷を与える経験だと思うんですね。そういった中でずっと闘われてきたのが、韓国の民主化運動なのです。韓国の学生たちがそういった過酷な経験をしていた頃、日本で学生生活を送っていた私たちは、バブル景気に躍っていたんです。この差は何なのか?
ようやく88年に5・18が公論化されて、それで何が明らかになったかというと、光州民主化抗争というのは、これはアメリカ帝国主義がバックにいたことで悲惨な結末に終わったということ、そのことに初めて気づくわけです。70年代までの運動はどちらかというと「朴正煕大統領閣下へ伏して民主化を懇願いたします」といったような、あたかも諫言のような遺書を残して抗議の自殺をするわけですが、80年代以降はそうではなくなります。光州の悲劇は、戦後の東アジア地域秩序の中で分断された韓国が日米同盟に支配されている中で起こりました。最後の最後、市民軍を壊滅させた空挺部隊の出動は、これは韓国軍が自分の判断ではできないんですね。駐留米軍の許可がなければ空挺部隊は動かせないわけで、当時光州の人たちは、アメリカは民主主義の国だから自分たちを助けに来てくれるんじゃないかとほのかな期待を抱いたんだけれども、一夜明けてみると、アメリカは民主主義ではなく反共主義国家として自分たちに銃を向ける立場として、全斗煥の背後にその真の姿を現すわけです。その背信感たるやということなんですね。70年代までの民主化勢力は南韓イデオロギーにもとづく国家体制までは否定していなかったのが、光州抗争を経験した80年代以降は分断を前提とした国家体制それ自体の変革を目指すようになる。それは光州の惨劇の裏にアメリカ帝国主義と、その下で分断状況に置かれていることの現実が再発見されることになったからです。そして、これは非常に大きなトラウマ体験でした。
そこから歴史を遡って、例えば4・3が再発見され、その歴史的意味が再帰的に構築されていく。このように光州を原点として、どんどんどんどんと遡及的に自分たちの過去の歴史を遡っていく、そして無かったことにされてきた真相を掘り起こしては再帰的に歴史認識を構築し直すという動きが始まります。
4.光州5・18が開けた「パンドラの箱」
昨年11月に韓江(ハン・ガン)氏がノーベル文学賞を受けた際に、私は『ユリイカ』から原稿を頼まれてそのことを書きました。光州に関連してずっと研究してきた立場だったので、文学は全くのど素人なんですけど、記事を書かせてもらったんです。光州5・18が韓国現代史にはたした役割とは、一言でいって隠匿された歴史という「パンドラの箱」を開けたことだったんですね。
光州自体もずっと無かったこととして押さえ込まれてきたのが、8年がかりでようやく公論化された。「ホロコーストはホロコーストの記憶の破壊によって初めて完成する」という高橋哲哉氏の言葉がありますが、光州にせよ済州にせよ、ホロコーストはまさに完成されようとしていたわけです。
ところが87年の6月抗争を経て88年、光州に関しては何とか真相が少しずつ明かされるようになっていき、その流れの中で済州4・3事件も再帰的に再発見されていくわけです。光州もそうですけど、済州島という場所自体が、これは韓江(ハン・ガン)の小説『別れを告げない』のあとがきで、訳者の斎藤真理子さんが書かれていたように、住民たちは長らくレッドコンプレックスを内面化させられて、ずっと沈黙を強いられてきました。けれども、ようやく光州の経験を通して歴史の掘り起こしが始まるのです。同時に4・3に関しては、やはり在日遺族の方たちの活動がずっとエンカレッジしてきた部分があって、4・3の真相も少しずつ再発見されていっている。
先ほどの繰り返しになりますが、この80年代以降の韓国民主化闘争というのは、民主化だとか統一だけではなくて、やっぱり光州に原点があるんですね。それは民主化を求める生者たちの闘いであると同時に、ホロコーストを完成させないための闘いでもあるので、運動の主語は常に「死者」なんです。私が戦争が嫌だからとか、私が人権尊重された豊かな社会を生きたいからとか、「私が私が」ではなくて死者なんですね。これがずっと続けられてきて、過去事への遡及ということで言うと、4・3だけじゃなくて、例えば韓国兵によるベトナム戦時民間人虐殺に対する真相究明と謝罪運動、これなども韓国で学生運動に参加していた人たちがやり始めたことです。
加えて、朝鮮戦争の時の民間人虐殺の真相究明や、また全斗煥時代にはホームレスや愚連隊みたいな人だとか孤児といった人たちを片っ端から捕らえてきて、釜山にある兄弟福祉院という施設にぶち込んで強制労働をさせ、虐待で何人もの人たちが亡くなってるのに、これなんかもずっと真相をひた隠して…といった事件があって、今そこから生きのびた被害者たちが救済を求めて闘っています。さらに学生運動をやっていた学生が強制徴集され、軍隊でリンチを受けて不審死を遂げる。これは赤化に対して「緑化事業」という比喩で呼ばれているんですが、この緑化事業による多くの不審死が起こっており、訓練中の事故死や自殺として処理されていることに対し、ここでもまた真相究明、責任者処罰、死者の名誉回復などを求める運動が行われています。いずれも光州から遡及的に行われてきたもので、例えば「慰安婦」問題の真相究明運動も同様の文脈の上にありますし、セウォル号の問題、それに直近の出来事では2022年に梨泰院(イテウォン)の雑踏事故で多くの犠牲者が出ましたが、その遺族たちの活動を支えているのは実はこの80年代、民主化運動を闘った人たちであり、さらにこの人たちに支援されてきたセウォル号犠牲者の遺族たちなんですね。
その主な担い手は「86世代」というふうに呼ばれます。これは日本における団塊世代みたいなもので、韓国ではいわゆるベビーブーマーなんですけど、私なんかがこれのど真ん中世代と同世代になります。86とは「80年代に学生生活を送った60年代生まれ」を意味し、この人たちが80年代の民主化闘争を担ったわけですが、実は昨年12月3日の非常戒厳の時に塀をよじ登って国会に結集した議員の多くもこの世代ですね。今この「86世代」が、老害と言われながらも、国会議員をはじめ韓国社会を動かす舵取りを担っている、そういう背景があります。
5.《記憶・記念日・歴史的想像力》から社会変革へ
最後のスライドになりますが、「《記憶・記念日・歴史的想像力》から社会変革へ」というタイトルを付けました。この「歴史的想像力」という言葉は、W.ブルッゲマンという旧約(旧約聖書)学者の本を読んで、そこからヒントを得ました。韓国はご存知のようにキリスト教国ということもあり、私は大統領など国の要職にある方々が発する声明文とか演説だとかを聞いていて、やっぱり聖書テクストを踏まえてるなと感じる部分が結構あったりするんです。
2019年だったと思うんですが、当時大統領だった文在寅(ムン・ジェイン)氏が、2045年に統一を目指すという発言をしたんですよ。それに対して日本の元ジャーナリストの政治評論家が「夢見る大統領」と茶化したんですね。それをたまたま私、テレビで見てたんですが、大統領の語りを冷笑するんですよ。確かにそれはもうかなり先の話だし、その頃に文在寅自身が生きてるかどうかもわかんないしですね、確かに客観的には夢物語のように聞こえるかもしれないけれど、2045年というのは光復節100周年の年ですね。
私の経験上、韓国の社会運動を見ていく上で非常に重要なのは「記憶」ということであり、「記念日」ということです。言うまでもなく光復節とは大日本帝国による植民地主義からの解放でしたが、その100周年となる2045年には今も続く日米同盟下での新植民地主義から解放されているように、そして統一のために頑張ろう、そういうビジョンを大統領が示したということであって、別に文在寅の頭の中がお花畑というのでは全くないのです。私はこの政治評論家の態度に本当に頭にきて、そういう人物がメディアに出張っていること自体がむちゃくちゃ不愉快なんですけれども、これは私たち日本の人間が全く理解できていない「歴史的想像力」というものです。で、それがもう本当に発揮されたなと思ったんですね、あの非常戒厳の夜に。
「歴史的想像力」とは、ブルッゲマンによると、「過去に根ざしながら未来にビジョンが拓かれる」といったイメージで、これは出エジプト記を原型にしています。たとえば新約聖書の使徒言行録7章には、殉教者ステファノが出エジプト記を引きながらイスラエルの民の苦難の歴史と救いの結末を語る場面があります。出エジプト記の顛末を語ることは、過去を語りながら同時に未来を語ることでもあるんですね。つまり過去のテクストを通して未来のビジョンが示されることで、そのあるべき未来を実現に至らせようと心理的に駆動するものが「歴史的想像力」です。
ちなみに私は小中高の12年間カトリックの学校で育ってきたので、イスラエルが今ガザに対して行っていることを思うと、聖書テクストを刷り込まれた自分はつくづくイスラエルの側からしか物事を見てこなかったな、ということをものすごく痛感させられています。出エジプト記の最後の方でモーセがシナイ山の頂から「乳と蜜が流れる」というカナンの地を見下ろしながら、結局そこに入ることを許されなかったというあの場面を、自分は当たり前のように内面化していたなと思わされたのです。「乳と蜜の流れる地」と羨望され、モーセの後継者ヨシュアが率いるイスラエルの民によって土地を奪われ、滅ぼされた側のことが、自分には全く見えてなかったんだと気づかされたのです。
ちょっと話がずれてしまいましたが、そんなわけで今の時勢にイスラエル、イスラエルと、あんまり出エジプト記の話をするのは言いづらいなという感じはあるんですが、一応この「歴史的想像力」という概念を使うことで、非常戒厳の時の出来事を読み解くことができるという話を最後に少しだけしたいと思います。
日本では全く報じられなかったんですが、非常戒厳を食い止めるために、慶尚道や全羅道といった南西部、南東部の農村部から農民の方たちがトラクターを連ねて大統領官邸を目ざして進軍してくるんですよ。このトラクター部隊による進軍は、2016年のろうそくデモの時も一度そういう試みがなされたんですね。2016年の時はその前年に、やはり大がかりなろうそくデモがあった時に、全羅道からソウルにやってきた白南基(ペク・ナムギ)さんという当時70歳近い農民活動家の男性が放水銃の集中攻撃を受けて意識不明の重体に陥り、約10カ月後に亡くなるという出来事がありました。地方農民にとって2016年のろうそくデモは白さんの死を受けての弔い合戦の意味が付与され、トラクター部隊を編成して抗議のために光化門を目指したのです。ところがこの時、トラクター部隊は高速道路を出たところで封鎖されて、そのまま立ち往生してしまった。
その時に「民衆の声」というウェブ媒体で報道された写真がこのスライドの左側です。ちょっと逆さまになってますが、この翻っている旗には全琫準(チョン・ボンジュン)闘争団と書かれています。全琫準という人物は、1894年の甲午農民戦争、日本の歴史教科書では私は東学党の乱と教わったと思いますが、その農民軍を率いた人ですね。彼は朝鮮王朝の都である漢城(現在のソウル)に進軍しようとして敗退し、その後日本軍に捕らえられて処刑されます。そんな歴史上の人物の名を冠したトラクター部隊ですが、2016年の時には、一般市民はほとんど関心を示さなかったんですね、この全琫準闘争団に対して。「民衆の声」というインターネット・メディアが唯一、トラクター部隊の立ち往生を報じたぐらいで、誰も関心を示さなかったんです。しかし、今回は全く様相が違ったんですね。
全琫準闘争団は大統領官邸前で非常戒厳に抗議するためソウルを目指していました。高速道路をノロノロとトラクター部隊を進ませて、高速を出て次には南泰嶺(ナムテリョン)という峠を越えて大統領官邸に向かおうとしたのですが、そこで警察によって封鎖されるんです。彼らがSNSに「私達を助けてください」という書き込みをしたことで、市民たちが一気に寄せ集まってきた。特に若い女性たちがさまざまな差し入れを持って大勢集まってきて、一緒に警察に対峙して戦う姿勢を見せるんですね。結局その熱量に押し切られた形で、警察も封鎖を解かざるを得なくなり、彼らは無事に南泰嶺を超えて大統領官邸まで進軍をしたという出来事があったんです。この動きというのは東学農民軍が1894年、つまりちょうど130年前の11月20日から12月7日にかけて、まさに12・3非常戒厳と時期的にも丸かぶりしているわけですが、漢城を目指していた東学軍が壊滅的な敗北を喫した牛金峙(ウグムチ)の戦いを想起させるものだったんですね。牛金峙から先へは進むことが叶わなかった、東学農民軍が越えられなかったこの牛金峙という場所。それに対して、130年後の今こそ何とかして彼らを首都へと突破させてやらねばという、ある種のエートスが働くわけです。これは「歴史的想像力」そのものだと私は思っていて、これが現実に社会を動かしたんですね。先ほどお話した2045年に統一をと語った文在寅さんの発言を冷笑するのは、冷笑する方が馬鹿だと思います。全くもって他者に対する敬意に欠けている。他者が歩んできた歴史というものをきちんと踏まえてリスペクトを持っていれば、こんな冷笑する言葉なんて出てこないと思うんですけれども。12・3非常戒厳をめぐる戦いで、全琫準闘争団に南泰嶺を越えさせようとした市民たちの行動は、これもまた東学農民軍の死者たちが今に生きる生者たちを生かしたんです。しかしその前には、全琫準という死者を何とか死者として蘇らせて、その精神を継承して自分たちの中に内面化しよう、そしてこれを新たな歴史認識に埋め込み直そうとする動きがあり、それは「抵抗の伝統」と呼ばれるものです。これも4・3同様、光州5・18を通じて再発見されたものなんですよ。東学農民戦争だけでなく、全羅道で最も燃え広がった3・1抗日運動もそうやって再帰的に「抵抗の伝統」に埋め込まれたのです。
「抵抗の伝統」という言説の原点には光州があり、光州抗争を経たからこそ過去時に遡ってその意味が再帰された。東学農民戦争は言うまでもなく韓国の歴史教科書にちゃんと書かれてあるんだけども、そうした公定歴史とはまた異なった民衆史と呼ばれる歴史認識の文脈で、改めて全琫準について記憶し、その精神を継承しなくてはならないという積み重ねで、韓国の歴史とはいわば記憶の闘争によって紡がれてきたんです。記憶すること、それを語ることは一見すれば簡単なことのようですが、強権的な国家ではそれがとても難しいわけですね。
ちょうど2020年のコロナ・パンデミックが始まった時に、李文亮(り ぶんりょう)という中国武漢のお医者さんが、自らコロナに罹りながら、今まで見たこともないウイルスがいるぞという警鐘をならした。それに関連して、閻連科(えん れんか)という作家が香港科技大学で語った内容なのですが、そこには「李文亮のように警鐘を鳴らす人になれなくても、その声を聞き取れる人になろう。大声で話せないなら、耳元でささやく人になろう、ささやくことすらできないなら、黙っていてもいいからおぼえてる人になろう」とあります。本当に弾圧の極限状態を超えた時、記憶こそが唯一の武器になる。多分この言葉の意味を、韓国の冬の時代を経験してきた人たちなら皆、得心するんじゃないかと思うわけです。
あったことを無かったことにさせないための闘い、つまり記憶の闘い、死者を正しく死者たらしめるための闘い、そういったプロセスが日本の場合、あんまり意識されないまま今まで来ちゃったんじゃないかなというふうに私は思っているんですね。先ほど李承晩が日本の治安維持法を下敷きに国家保安法を敷いたという話をしましたけれども、日本で治安維持法は完全になくなったかというとそうじゃないと私は思っています。敗戦で何となくうやむやのうちにですね、廃止をさせられたか知らないけど、民主主義国家に生まれ変わったとか言われてはいるけれど、でも被害者に対する真相究明、責任者処罰、名誉回復・国家賠償、それらの点に照らした場合どうなのか。小林多喜二の拷問死はもちろんそのまま放置ですし、山﨑博昭さんもしかりですしね。反省とか謝罪もなく、真相究明をしようという構えもない、そんな国家の為政者に、例えば緊急事態条項に対する実権を握らせるなどというのは正気の沙汰ではない、私はあり得ないというふうに思っています。
記憶というのは一つの闘いですが、日本では関東大震災の時の朝鮮人虐殺は無かったとか、南京虐殺は無かったとか、そういうことを与党政治家までが平然と言ってのけている。そういう時代を生きている中では、多分これから私たちは本当に闘わなきゃいけない、記憶することそれ自体が闘いになっていくんじゃないのか。
今までずっと真相究明がなされないまま、なあなあで無かったことにされてきた死者たちの存在を一人一人掘り起こしては、死者を死者として生かすこと。その死者たちが生者を助けるようになるまでには、どれだけの時間と労力がかかるかと考えた時に、気が遠くなるような思いになりますが、それは歴史を直視することを怠ってきたツケとしか言いようがありません。でも多分、私たちはここから始めなきゃいけないのではないだろうか、私はそのように思っております。私の話は以上です。ご清聴、どうもありがとうございました。





