10・5秋の東京集会開く、弁天橋-福泉寺で山﨑君追悼

10・5秋の東京集会開く、弁天橋-福泉寺で山﨑君追悼

 

 かつて1967年に10・8佐藤首相南ベトナム訪問阻止・ベトナム侵略戦争参戦国化阻止羽田闘争がたたかわれました。全学連(いわゆる三派全学連)を先頭に多くの労働者学生市民がベトナム侵略戦争反対のために、羽田周辺で同時多発的に機動隊の壁をぶち破って必死にたたかいました。
 今年はその58周年。今年は、10月5日、秋の東京集会「敗戦80年、何が変わったか?」を開催しました。

 同日、それに先立って午前中から、羽田・弁天橋にて、10・8羽田・弁天橋の実力デモで機動隊に警棒で撲殺された山﨑博昭君(京都大学1回生、享年18)を追悼しました。毎年来られる方たち、新しく来られた方たち、20代の学生たちが、やや暑いぐらいの晴天のなか、集いました。佐々木幹郎さん(当プロジェクト代表代行、詩人、大手前高校同期生)と辻惠さん(当プロジェクト事務局長、弁護士、大手前高校同期生)を中心に、初参加の方とあいさつを交わし、賛同人たちと再会を喜び合ったりしました。
 佐々木幹郎さんが定刻の午前11時30分、10・8闘争の様子を想起し、参加者に説明しました。そして、山﨑君が斃れた地点に向かって、1分間の黙祷。
 記念撮影をした後、歩いて五十間鼻に移動。ここには、多摩川河口と海で、あるいは多摩川に流れ着いた多くの水難者を供養するための無縁仏堂があります。その一角に、堂守さんを始め地元の方々のご協力を得て、山﨑君を追悼する「平和地蔵」を建立してあります。参加者は足元に気をつけながら桟橋を渡って、山﨑君にそれぞれが手を合わせて追悼しました。

     ▲蒲田方向から弁天橋を見る        ▲10・8闘争を説明する佐々木幹郎さん       ▲山﨑君が撲殺された場所に向け黙祷    ▲記念撮影(前列中央に水戸喜世子さん)    
▲五十間鼻の山﨑地蔵     ▲足元に気を付け山﨑地蔵に挨拶

 続いて、弁天橋・五十間鼻からバスで福泉寺に移動(「萩中公園前」で降車)。福泉寺のご住職はお元気でした(水戸喜世子さんと同年齢の90歳)。
モニュメントの墓石には中国・殷時代の金文書体で「山﨑博昭」と刻印。左下の墓誌は「反戦の碑」。「……山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える」と刻印されています。

 
▲福泉寺の記念碑(左下に反戦プレート)▲山﨑君に手を合わせて

▲記念撮影(前列中央に重信房子さん)

 その後、萩中公園内にある萩中集会所へ。地下の食堂で昼食。
 昼食後、午後1時15分に東京集会「敗戦80年、何が変わったか?」を開始。
 司会の佐々木さんから、体調が思わしくなく欠席された当プロジェクト代表の山﨑建夫さんのメッセージが紹介されました。

 

 

 この日のメインであるお二人の講演に移りました。※お二人の講演レジュメが文末にあります。
 最初に、山本義隆さん(科学史家、駿台予備学校講師、元東大全共闘代表)が「敗戦80年にあたって テクノファシズムと高度成長」と題して講演。
 山本さんは、丸山真男の「ファシズム」論を批判的に分析し、日本のファシズム運動を、内には国家総動員・重化学工業化による国家改造運動、外にはアジア諸国の侵略・植民地化による経済ブロックの建設だった、と規定。巨大な軍と軍将校、革新官僚、大資本によって、テクノクラート・ファシズムが推し進められたことを解明し、批判されました。侵略戦争を遂行し、その中で暗躍した岸信介が敗戦後、A級戦犯を逃れ、戦後政治を牛耳ることになったことの意味を解き明かしました。戦前・戦後の日本の歩みを詳しく分析し、戦前の「高度国防国家」路線が戦後、「高度成長・国際競争」として継承されてきたことを指摘しました。いつもながらの説得力あふれる講演内容でした。

 続いて、真鍋祐子さん(東大東洋文化研究所教授、東アジア地域研究)が「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」の講演。
 昨年の12・3非常戒厳に際して、韓国の多くの市民たちが国会議事堂へ駆けつけ、怒りを溢れさせたことについて、その力の源泉は、1980年光州5・18の記憶をトラウマとして抱えていたことにある、と具体的な事例を挙げ、生き生きと語られました。そこには、韓国民主化闘争が「生者が死者を生かす」ためのたたかいであること、「精神の継承」がなされていることを感動をもって語られました。真鍋さんは、韓国における国家テロリズムの歴史を解き明かし、光州5・18がいかに大きな位置をもっているかを明らかにされました。韓国社会において、東学農民戦争と3・1独立運動を原点として、社会変革のたたかいが脈々と続けられていることを語られました。深い感銘を受ける講演でした。
 休憩に入り、その間、カンパ袋が回されました。

 
▲山本義隆さん             ▲真鍋祐子さん


▲休憩タイム、若い人たちが山本さんの周りに

 休憩後は、水戸喜世子さん(発起人、「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表)からの発言。水戸さんは、当プロジェクト立ち上げの発案者のお一人です。山﨑君のお母さんとの思い出を語りました。福島や韓国・台湾の反原発運動とご自身のかかわりを語られました。岐阜県大垣市で近藤ゆり子さん(当プロジェクト賛同人)が大垣警察公安権力とたたかい続け、昨年9月、ついに市民監視・情報収集・外部への情報提供が違法であるとの判決にいたり、完全勝利したことを報告されました。水戸さんの変わらぬ熱い情熱が感じられました。

 次に、昨年、著書『パレスチナ解放闘争史 1916⁻2024」(2024年3月、作品社刊)を出された重信房子さんが、簡潔に、想像を絶する苦難にあえぐパレスチナの人々への連帯を訴えました。ただただ虐殺を止めたい一心でトランプ提案を受け入れたハーマスの苦しみと決断の意味を提起されました。そして、かのナクバを子どものころに体験したという、重信さんの友人が、お母さんのスカートの中に隠れて、生き延びたと語りました。その友人とパレスチナ人民の壮絶な歴史を詠んだ自作の詩の一部を朗読されました。ガザの人々への連帯の心をこめた朗読は、切実で、魂を揺さぶられるようでした。

 そのあと、当プロジェクト関西運営委員会事務局長の新田克己さんが関西における活動を報告しました。
 最後に、事務局長の辻惠さんが山﨑君への思いを語り、今後も戦争反対の人生を貫くとの決意を表明されました。
 この集会の参加者は85人、会場カンパが2万8755円集まりました。ありがとうございます。
 敗戦80年に際して、10・8羽田闘争とそこで非業の死を遂げた山﨑博昭君を今後もずっと記憶し、記録し、あの「精神を継承する」運動を当プロジェクトが起こしたことの意味を、改めて強く確認することができた一日でした。
 集会終了後、多くの方が食堂に移動し、それぞれのテーブルごとに会食しながら懇親会がもたれました。

 
▲水戸喜世子さん            ▲重信房子さん

 
▲新田克己さん             ▲辻 惠さん

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山本義隆「テクノファシズムと高度成長」レジュメ







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真鍋祐子「トラウマと社会変革」レジュメ



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