テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて/山本義隆

テクノファシズムと高度成長―― 戦後80年を顧みて
山本義隆
2025年11月22日 

 

※10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会(10月5日)の講演に大幅加筆

◇はじめに

 山本です。最近、足腰が弱ってきたので座ってやらせていただきます。
 今日の『敗戦80年、何が変わったか?』という集会のタイトルは、2回前の発起人会議のときに、「そうか80年だな、どうしようか」とみんなで喋っているうちに、何となくこれに落ち着いたんです。もちろんこれは「そう変わっちゃいないんではないか」という反語のつもりです。

 僕は1941年、対米戦争が始まった年に生まれました。12月8日の日米開戦直後です。もちろん戦争の記憶はありません。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されたのが1964年で、これは僕が大学を卒業した年です。その時の新聞に、もちろん正確には覚えていないですけども、大体こんなことが書かれていました。
 
 日本はかつて軍国主義で戦争をしたけれども、敗戦で平和国家に生まれ変わって、日本の多くの都市が焼け野原の状態から、真面目に働いて高度成長を成し遂げた。新幹線も作り上げた。オリンピックを開催できるまでに復興を遂げた。それで戦後初めて世界中から人々が日本にやってくる。だから「平和国家」に生まれ変わった日本を見てもらおう、日本が「平和の祭典オリンピック」を開催するのを、世界中の人たちに見てもらおうではないか、というようなことが書かれていたのです。

 それで10月10日、東京オリンピックの開会の日です。ものすごくいい天気だったのを覚えています。それで開会式に各国の選手団が三々五々入ってきて、最後にね、日本選手団が300人ぐらいの大選手団です、それが隊列を組んで足並みを揃えて胸を張って入ってきたわけですよ。ようするに軍隊行進です。先頭に日の丸を掲げて。それでそれが終わったら天皇が出てきて開会の挨拶をしたわけです。それでその日本選手団の軍隊行進を見て、外国の記者たちが「ジャパンは未だにミニタリズムの国だったのか、まだ軍国主義なのか」とびっくりしたのです。その話はその当時はいろいろ新聞に出ていたのですよ。それは、外国の記者団から指摘されるまで、大部分の日本人が思ってもいなかったことでした。普通、どこの学校の運動会でも、子どもたちは足並み揃えて行進させられていたんだから。

 つまり、日本人は戦後20数年経って自分たちでは変わったと思っていても、本当は、と言うか、メンタリティーはあまり変わっていなかったんですね。戦前のファシズム支配の細部・末端における非人間的な抑圧や理不尽な規制を、抑圧だと意識することもなく人間性に反することだと自覚することもなく、あたり前の事のように続け、あるいは軍国主義の発想法やものの見方のバイアスを、自然なことのように維持していたのですね。

 戦前からの負の遺産は、もちろん制度的な面でも少なくはありません。たとえば戦前は天皇制の憲法で最終的な権力は天皇にあったのにたいして、戦後は主権在民で三権分立だと言われているけれど、実際は三権分立なんてないですよね。圧倒的に行政権力が強くて、司法権も立法権もそれに屈服しています。一連の原発裁判の結果を見たらわかります。

 そういう意味では本質的なところで日本はあんまり変わっとらんのじゃないかというわけで、今日の僕の話のテーマを「テクノファシズムと高度成長」としました。「テクノファシズム」と言っているのは、戦前の日本のファシズムのことです。「高度成長」はもちろん戦後。言いたいのは、その戦後の高度成長は、実は生まれ変わった平和憲法の下で、すべてが失われた焼け野原から作り上げられたのではなくて、物質的にはもちろん精神的にも戦前のファシズムの過程でできた日本の土台の上に作られたのであり、戦争の影響や軍事的な要因に補完されて成されたのだということです。

◇丸山眞男のファシズム論

 それで、戦前の日本のファシズムですけれども、有名でひろく受け入れられてきたのは丸山ファシズム論、それから共産党系のファシズム論です。レジュメに書いておきましたけれども、丸山のファシズム論を読むと「ファシズムは何ら新しい社会体制を目指すものではなく、積極的な目標や政策もない。単なる反動であり、反革命である」と書いてある。

 それで、丸山ファシズム論の歴史では、日本ファシズムの第1期は1919年の北一輝の本やそのころの民間右翼の運動から始まり、つづく第2期は、右翼のテロリズムと青年将校の非合法クーデターで語られる「急進ファシズム運動」で、それが二・二六クーデターで破綻したとあります。二・二六クーデターの中心の青年将校たちというのは士官学校を出て、日常的に兵士と一緒に起居して兵士を訓練している非エリート軍人で、だから昭和の相次ぐ恐慌下での農民の窮状、そして日本社会の閉塞状況を日常的に強く意識していた部分なわけです。だからクーデターは「世直し」と意識されていたのです。しかしその「世直し」は、一君万民の日本、つまり天皇が父親として君臨している家族国家日本において、天皇が困窮している農民の現実を知ったならば、天皇が農民を見棄てるはずはない、だから悪いのは天皇が真実を知るのを妨げている特権階級の取り巻き連中で、その連中を全部抹殺し、天皇親政、つまり天皇にすべてを任せれば、農民も救われ、おのずと新しい日本が生まれるという、そういう意味ではまことに幻想的な話なんですね。たしかに丸山の言うように、それ以上にクーデター後の展望はなにも提示していない。しかし大元帥天皇が「反乱軍を直ちに鎮圧せよ」と一喝したとき、その幻想は全部壊れたわけです。これで「日本ファシズムの第2期」は終わります。「急進ファシズム運動」の破綻です。

 その後の「日本ファシズムの第3期」について、丸山眞男は「軍部、官僚、財閥の抱き合い体制が強化され、定石通りのファシズムの完成へと進んでいきます」と語っています。

 僕はこれを初めて読んだときに、大変奇妙な感じがしました。「目標や政策のない運動」の「完成」とはいったい何なんだ、理解できません。

 じつは丸山が「日本ファシズム第3期」と言っているものは、二・二六までの「急進ファシズム運動」とは別の流れなのです。丸山はそこのところを理解していないので、彼のファシズム論は理解不可能なところがあり、大きな欠陥を持っています。

 「第3期の運動」と言われているのは、実際には「第2期」までの青年将校たちのクーデター路線の担い手が変わっただけのものでもなければ、それが変質したものでもなく、もともと出発点が異なり、目的も異なる別の動きなんです。それがどこから始まったかというと、第一次世界大戦から、第一次大戦が日本の陸軍に与えた「衝撃」からです。

◇第一次世界大戦の衝撃

 第一次世界大戦の「衝撃」とは何かというと、第一次世界大戦というのは、それまでの戦争とは全く違っていたことにあります。それまでの戦争は、日清でも日ロでも、正規軍が前線でドンパチして、それで弾が尽きたら終わりなんですよ。比較的短期間に終わり、銃後では市民生活が普通に営まれていたのです。ところが第一次世界大戦は、国内で工業生産力をフル回転させ、武器弾薬を作り続け、そのため家庭の主婦までも工場に動員し、もちろん兵力も補給し続け、国民にたいしては戦意高揚のキャンペーンを続けて、4年半にわたって戦い続けられたのです。前線と銃後の区別もなく、国全体がヘトヘトになるまで戦いつづけた、長期戦で広域戦の総力戦だったのです。

 しかも特筆すべきは、最先端の科学技術が全面的に投入された初めての戦争だったのです。使われた武器弾薬の量がこれまでの戦争にくらべて桁違いに多く、砲弾の火力も格段に強化されていたのですが、それだけではありません。航空機、戦車、軽機関銃、潜水艦、軍用自動車、毒ガスといった最新兵器がその戦争の過程でつぎつぎ開発され、はじめて使用されたのです。ということは、国の工業生産能力、農業生産能力、研究開発能力、大衆動員能力、そのすべてをフル動員させた戦争、国家総動員の総力戦だったのです。

 日本にとっての第一次世界大戦は、中国を舞台にして、極東に力を割くことのできないドイツを相手に戦って、ドイツを屈服させた小規模な戦闘で、その意味で日本は戦勝国だったのです。しかし「欧州大戦」と呼ばれたその大戦のヨーロッパの戦線における現実、つまり総力戦の現実を知って日本の支配層、とくに軍は多大な衝撃を受けたのです。

 日本の「第1の開国」は「黒船」というアメリカ合衆国武装艦隊の出現によるものです。あれに衝撃を受けて、日本の支配層はこのままでは植民地になるという危機感をもって、明治維新以降、全力で近代化つまり資本主義化に乗り出していったのです。それが「富国強兵」「殖産興業」のスローガンで、軍事力を強化しながら西欧の技術を習得し近代産業を育成していくという明治新政府の方針だったのです。こうして日本は、第一次大戦までの約半世紀間に、資本主義社会に変貌しただけではなく、近代的な軍事力を備え、台湾と朝鮮を植民地支配する帝国主義国家に成り上がっていったのです。

 それと同様に、第一次世界大戦の衝撃は日本に「第2の開国」を促したのです。すでに帝国主義列強の一角に食い込んではいたけれども、今の日本にはとてもじゃないけど、第一次大戦のヨーロッパ戦線で展開されたような総力戦を戦う力量はない。士官の移動は騎馬で、物資の輸送は大八車のレベルの日本軍では、西欧の列強にはとてもじゃないけれど敵わない。高性能の武器弾薬を長期間にわたって大量に作り続ける工業生産能力もない。もちろん最新兵器を開発する科学技術力もない。この時点で日本はすでに工業化しているといっても、せいぜいが繊維とか雑貨の軽工業です。重化学工業はほとんど育っていない。

 だから何をさておいても重化学工業を育てあげ、軍の装備を近代化・機械化しなきゃいけないと、軍の中にそういうふうな動きが出てきたわけです。それが近代派なんですね。

 もちろん軍の中にはそれだけじゃなくて、そんなこと言ったって工業化なんかすぐにできるものではない、それより戦争は精神力が大事なんだ、という精神主義者ですよね、それもいた。それがのちに「皇道派」と呼ばれる流れとなり、二・二六において青年将校たちが頼みとした部分なわけです。それにたいして近代派というのは、のちに「統制派」と言われる、永田鉄山とか東条英機たちなわけです。その近代派はものすごい危機感を持ったわけです。実はそれが、「第3期の日本ファシズム」へとつながってゆく運動のはじまりなわけです。それが目指したのは、日本に早急に重化学工業を育て上げ、国家総動員を可能にする総力戦体制を構築すること、すなわち高度国防国家の建設だったのです。

◇満洲事変と「満洲国」

 ところで近代的な重化学工業を建設するにあたって日本の支配層と軍が直面したのが、そのための資源、鉄鉱石やその他が日本にはないという、「資源小国」日本のシビアーな現実だったのです。だから何としてでも資源を確保しなければならない、必要ならば武力に訴えても原料供給地を支配下に持たなければならない、という欲望が生まれてきたのです。そこで、必要な資源を地下に豊富に蔵している中国大陸に目が向いてゆくわけです。日清・日ロの戦役に勝利し増長した国家の思い上がりであり、エゴイズムなわけです。

 それで始まったのが1931年の満洲事変です。「満洲」つまり中国東北部は鉄鉱石と石炭の豊富なところで、それが第一の狙いだったのでしょう。石炭は日本にもあったのですが、日本の石炭は製鉄に必要なコークスを造るには向いていなかったのです。

 満洲事変は関東軍、つまり中国東北地方駐留陸軍部隊の石原莞爾なんかが、もちろん政府の了解もなしに起こしたものです。これは事実上のクーデターです。本来なら石原莞爾は死刑ですよ。「天皇の軍隊」を勝手に動かしたんだから。二・二六の青年将校たちは4000名あまりの軍を動かしただけで全員死刑になっているんですから。それでもその当時、世界恐慌を含め、日本はたて続けの恐慌に襲われ、企業の倒産や失業者は増え、国内は悲惨な状態にあったのです。そういう中で関東軍が暴走して、ほとんど抵抗なしに進撃を続け、そのうえ売らんかなのマスコミは調子のいい戦勝記事を書く。そうして結局、国内の民衆のフラストレーションを全部外向けに発散させたことになり、結果オーライで、政治権力は事実上、関東軍の暴走を認めざるを得なくなったわけです。あれが日中15年戦争の始点で、日本の破綻に向かう動きの始まりだったと思います。

 それで満洲を占領したのですが、中国側の抗日武装闘争が激しく、そのこともあって直接的な植民地支配とせず、「満洲国」をでっち上げたのです。一応、表向きは国として創られ、「五族協和」とか言われていたけど、「満洲国」は、実質的には関東軍と日本人官僚が完全に支配している傀儡国家です。

◇「満州産業開発五ヶ年計画」

 そこで軍は何をしようとしたかというと、「満州産業開発五ヶ年計画」という、満洲の重化学工業化なのです。植民地でこういうふうな工業化をやろうとしたのはあんまり例がないんですね。イギリスなんかがインドでしたように、食料とか資源を収奪し、本国で作った商品を売りつけるというのが、それまでの植民地支配のやり方だったのです。日本は、朝鮮や台湾でも、「満洲国」でも勿論そういうことをやっているわけですけど、それと同時に「満洲国」を工業化しようとした。それは何故かというと、やっぱりソ連を仮想敵国としていたからです。革命後の計画経済で急速に工業化し軍事力を強化したソ連に国境を接して「満洲国」は直接対面している。それに対抗しなきゃいけない、というわけです。

 それと同時に、石原莞爾は「満洲国」の工業化を日本本土の重化学工業化を促進するためのステップとしても考えていたようです。つまり軍の近代派が目指していた日本国内での重化学工業化のモデルケースに「満洲国」をするという狙いもあったのです。

 ちなみに「産業開発五ヶ年計画」というのは、はっきり言えば社会主義ソ連の計画経済、5年毎に共産党が計画をたてて共産党官僚が企業を指導する計画経済を手本としたものです。企業の所有を国にするかしないかの違いだけで、基本的には変わりません。もともと遅れた農業国であったロシアを、比較的短期間でそれなりの工業国家に引き上げたソ連の計画経済は、同様に遅れた農業国である「満洲国」を速やかに工業化するための格好のモデルと見なされていたのです。

 それで軍がそういうことを目論んだのだけれど、実際にはとてもじゃないけれどもそんな能力を軍は持ってない。産業開発なんて軍にはとてもできない。そればかりか、そもそも国家として成り立たせるための法体系の整備とか、あるいは3000万「国家」の財政政策を立てることも、軍の手には余ることです。それで日本から官僚を呼び込んだのです。

◇革新官僚とマルクス主義

 その官僚ですけれども、その当時、商工省や企画院に「革新官僚」と言われた官僚が生まれていたのです。この時代の「革新」というのは、明治維新以来の薩摩・長州を中心にした支配体制を右から、つまり国家主義のサイドから改革しようとする動きを言います。
 
 それまでの官僚の中心は法務省で、法に合わせて国民に支配秩序を守らせる、いわゆる「牧民型官僚」が主流だったのです。しかし経済が発展してきたことで、官僚の役割が変わってきていたのです。それまでは農商務省という農と商がくっついた省があって、それは「二流官庁」と言われていたのだけれど、日本経済が発展して、それが商工省と農林省に別れて、優秀なやつは商工省に行く、あるいは逓信省に行くように変わってきたのです。というのはこの頃、技術が進歩し、支配機構が複雑化してきて、そこに官僚の能力を発揮できる新しい分野があるということがわかってきたわけです。だから岸信介とか椎名悦三郎とか東大法学部の秀才連中が、商工省などに入省しているわけです。あるいはのちに電力国家管理にむけて論陣をはった奥村喜和男は逓信省に入省しています。

 それまで日本は第一次世界大戦ではぼろ儲けしたんだけど、その後は恐慌、恐慌、恐慌で悲惨な状態になっていました。世界的にもそうです。だから大正末期から昭和のはじめの時代、資本主義社会が行き詰まっている、資本主義経済が下降期に入っていると、広く実感されていたのです。そういう資本主義社会の本質的な矛盾というのを初めて体系だった精緻な理論で学問的に解明したのが、マルクス主義であり唯物史観だったのです。それゆえ学生や知識人は、マルクス主義につよい関心を有していたのです。

 そのうえロシア革命があって、そのことは左右を問わず学生やインテリにすごい衝撃を与えたわけです。それで日本ではマルクス主義の文献がものすごい勢いで入ってきたのです。その当時、改造社がマルクス・エンゲルス全集全35巻かな、『共産党宣言』以外全部出しているんですよ。『共産党宣言』だけは権力の監視が厳しくて出せなかったようだけれども。『資本論』だって翻訳が3通り出てたんですよ。こんな国は日本だけですよ。だからこの時代、少なくはない学生が、マルクス主義の文献を熱心に読んでいたんですね。それで社会主義革命の実現を信ずる者は少数であったにせよ、多くの学生は一種の教養として読んでいたんですよ。マルクス主義は当時トレンドだったので、左翼だけではなく右翼も読んでたんです。岸信介だって「俺、読んだ」って言ってんだから。

 だから国家主義者であれ右翼であれ、そういう時代に学生生活を過ごし秀才連中は、恐慌が頻繁に繰り返される資本主義社会はこのままではいけない、なんとか変革しなければいけないというそれなりの意識をもって商工省や逓信省や鉄道省その他に入省し、国家の経済政策・社会政策に主体的に関わっていったのです。それが「革新官僚」と呼ばれていた部分であり、やがてテクノクラート、つまり経済政策・国家運営における技術官僚で同時に政策遂行の政治的な力をも備えた存在に変貌していったのです。

◇統制経済から軍事経済へ

 革新官僚の出発点は1931年の「重要産業統制法」の制定、そして国内産業の合理化政策で、それを主導した中心は商工官僚・岸信介です。重要産業統制法は、もともとは恐慌からの脱出策として、国の指導でカルテルを作らせるものです。これは自由経済を基本とする資本主義経済に国家が介入した、日本ではじめてのケースです。だけども1931年は満州事変の年でもあり、その時期に日本経済が準軍事経済に入り、そのため恐慌からの時限的な脱出策が、軍事経済としての統制経済に変質していったのです。その根本的な方針は何かというと、いわゆる自由経済の資本主義でもないし、かといってソ連の計画経済でもない、第3の道として統制経済なわけです。資本の私的所有は認め、その意味では社会主義ではないにせよ、個々の企業活動の目的を私的な営利にではなく公益に方向づけ、そのために経済過程に国家が積極的に介入してゆくというものです。

 その後、岸信介やその配下の椎名悦三郎たちは、軍の要請で渡満し、「満洲国」で満州の産業開発に取り組むことになります。それは完全に官僚の指導による経済開発、つまり非資本主義的あるいは反資本主義的でさえある統制経済・計画経済の実験だったのです。それに「満洲国」は、そもそも「国」といっても、議会もなければ政党もない、民意を汲み上げる機構もなければ権力をしばる憲法もない、要するに軍と官僚が何にも囚われずに3000万の民衆を思うままに支配している純然たる独裁国家なのです。

 この軍と官僚による完全な独裁的支配と、官僚の指導による経済活動としての統制経済というこの二点で、日本国内におけるいわゆる「第3期ファシズム」の予行が「満洲国」において行なわれたことになります。そして岸たち革新官僚は、この「満洲国」での実績を踏まえて、帰国後、国内での統制経済に取り組んでゆきます。

 それが1937年の日中戦争の始まりとともに、近衛内閣が登場して経済新体制運動として、企業サイドつまり経済界からの反発や反対に抗して現実化されてゆきます。その基本思想は、全体主義国家観にもとづくもので、企業活動の目的を個別企業の営利にではなく公益、つまり国家全体の利益に向けさせることにあり、それを資本主義でもなく社会主義でもない「第三の体制」と思念されていた統制経済として実現する事にありました。

 その実際のあり方は、企業において資本の所有者という意味の「資本家」と企業のマネジメントの担い手つまり経営技術者という意味の「経営者」を分離し、その「経営者」を「資本家」への責任から解放し、つまり私的企業の利潤追求の目的から解放させ、従業員・労働者とともに全体社会の利益のために働かせるというものです。その意味では、企業が国有化されているわけではないので社会主義ではないけれども、企業の所有者としての「資本家」から企業経営の決定権限を取り上げることであり、他方で経営技術者としての「経営者」を公務員に準ずる立場に置くことになります。そのことは、「経営者」をして国家つまり行政官僚の指導に従わせることを意味しています。これが、革新官僚の目指した「革命」、実際には後に見るように財閥大企業の利益を擁護するもののゆえに「疑似革命」だったのです。

 当然そのことは行政官僚に大きな権限を与えることになり、こうして行政官僚が「テクノクラート」、すなわち「高度の科学的知識や専門的技術をもって社会組織の管理・運営にたずさわり、意思決定と行政的執行に権力を行使する技術官僚(『広辞苑』)」に変身することになるわけです。そのテクノクラートが独裁的に支配権力を有するファシズムを、テクノファシズムと言います。

 しかしすでに軍事経済に入りつつあるわけですから、企業活動の目的を公益・国益に置くべしといっても、その公益・国益とは要するに基本的には軍事です。つまりこの時点での統制経済は、国家の経済活動を国家の指導のもとに軍事目的に向けていくというもので、当然、軍との協力関係が生まれてくるわけです。すでにそれまでの準軍事経済が軍事経済に変質し、軍事インフレ経済のなかで軍需産業の比重が極端に大きくなり、第一次大戦以降に陸軍統制派が追求してきた国家総動員・総力戦体制形成にむけた高度国防国家建設に弾みがついていたのであり、こうして軍と官僚によるテクノファシズム体制へと向かってゆくのです。

 ここに国防国家というのは、単に十分な工業生産力があって強力な軍事力を備えているだけではなく、国民全体が軍を支持し、物質的にも政治的にもそして思想的にも一丸(いちがん)となって戦争に協力するような態勢にさせられている国家を言います。端的に全体主義で軍国主義の国家なわけです。日中戦争勃発直前に成立した第一次近衛内閣は、戦争の早期収拾に失敗した1937年8月、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンとして「国民精神総動員」を訴えたのですが、それはまさしく軍の追求する国防国家建設の重要な部分、精神動員の部分を表していたのです。

◇重化学工業とは何か

 ここで軍事にとっての「重化学工業」のもつ重要性について、補足しておきます。

 「重工業」というのは鉄を作ったり、機械や船を作ったりする工業、もちろん大砲を作ったり戦車を作ったりもそうです。だから常識的に見て当然、軍事にとってきわめて重要なわけです。他方、「化学工業」は、当時の中心は電気化学工業です。それもまた軍にとって、重工業におとらずきわめて重要だったのです。

 電気化学工業の有名な例は、第一次大戦の直前にドイツのハーバーとボッシュが空気中の、空気の8割は窒素ですが、空気中の窒素を固定する技術を開発したことです。これは革命的なことだったのです。というのもそれまで窒素はチリだけで採れる硝石からしか作られなかったからです。窒素は何に使われるかというと、植物に必要なのは窒素、リン酸、カリと昔教えられたように、窒素は肥料の重要な原料なのです。それだけでなく、窒素は英語で言うとニトロゲン、ということはニトログリセリンの語源で、窒素は爆薬の原料でもあるのです。だから電力さえあれば窒素が空気からいくらでも作りうるということは、食料と弾薬がいくらでも入手できるということで、外国からの輸入が途絶えた状態で長期に戦争を続けるにあたって決定的なのです。ハーバーとボッシュが第一次世界大戦直前に空中窒素の固定技術を開発したので、ドイツの皇帝がこれでドイツも戦争ができる国になったと喜んだといわれています。

 当時の軍事にとって重要な化学工業はそれだけでなく、人工染料を作る工業やアルミニウムなんかの軽金属を電解精錬で作る工業もそうです。というのも、染料工場はそのまま毒ガス工場に転用できるのです。そして軽くて硬いアルミニウムは戦争のために、つまり飛行機を作るために絶対必要なのです。鉄では飛行機は作れませんから。このように電気化学工業というのは、戦争にとっていろいろな意味で、ものすごく重要なのですね。とりわけ「資源小国」日本においては、その重要性は切実だったのです。

 そのことはまた、電力そのものが、今後の戦争にとって決定的に重要であるということをも意味しています。

 日本の化学工業は、とくに大規模な電気化学工業は、第一次世界大戦の直前ぐらいから始まり、大戦後、特に軍による育成政策に支えられて大きくなっていったのです。

◇植民地の工業化と日本企業

 その電気化学工業の日本での草分けは、東大の工学部を出た野口遵という技術者です。野口は、今では水俣病で知られている水俣の現在のチッソの前身、日本窒素肥料株式会社(以下「日窒」)を創った人物です。元々はカーバイドの生産から始まって、硫安で大儲けして、それは電気を食うので、朝鮮半島での電力開発で企業の拡大を図ったわけです。朝鮮と満洲の国境を流れる鴨緑江の水を使った水力発電をやったのが日窒の子会社の朝鮮窒素肥料株式会社。1918年の日本の米騒動の後、日本政府主導の朝鮮での産米増殖計画にのって野口は硫安を生産しつづけて大儲けし、北朝鮮に電気化学工業の大コンビナート建設に乗り出したのです。もちろん先ほど言った電気化学工業の軍事的重要性を見越してのことで、戦時にはただちに巨大軍需生産基地に転換可能ゆえ、当然、軍からは大きな支援を得ていたと思われます。植民地朝鮮を支配していた総督府は天皇直属で行政に絶対的な力を有していたから、その後ろ盾さえあれば朝鮮ではほとんど何でもできたのですよね。相当無理なことでもできる。それでわずか10年ぐらいで北朝鮮の興南(フンナム)に、電気化学工業のほとんどあらゆるものを網羅した大コンビナートを造り上げたのです。

 それでさらに「満洲国」の産業開発五ヶ年計画のための電力を作るということで、朝鮮総督府と「満洲国」の公認のもとで、鴨緑江の満州側にも、その当時世界最大規模の水豊(スプン)ダムと豊満(フォンマン)ダムの発電所を造ったのです。その現実についてはレジュメの4枚目にちょっと書いておきました。アーロン・モーアというアメリカ人研究者の書いた文章です。すさまじいので読んでみます。

 豊満ダムは国(満洲国)の五ヶ年計画の一部として最優先の位置づけであったため、事業のスケジュールを保つために労働者は猛烈に働かされた。例えば冬の短い期間に、川の大部分を閉鎖させるため労働者は摂氏マイナス40度の中を昼夜働かされた。彼らは砂利、砂、石を得るため凍った地面を1メートルから2メートル掘り、それを凍った川の上に移送し、そこで1メートルの氷を破砕し、その下を徐々に埋め立てていった。この作業のために1日当たり1万人の労働者が必要とされた。技師は、この方法が安価で材料を節約すると主張していたが、3日におよそ1人の割合で死者が出たことを報告している。(『「大東亜」を建設する』p.236)

 労働者はほとんど中国人ですけども、人間扱いされていません。戦後の中国の調査で、この二つのダムを作るのに数千人が死んだと言われています。事故死だけではなく、飯場の居住条件が劣悪で、伝染病が頻発し、それで多くの労働者が死亡したのです。

 そういうふうにして、日窒は日本のトップクラスの化学工業に成長したわけです。朝鮮に造ったコンビナートは敗戦で全部放棄されたけども、日本に帰ってきて「日本一の化学工業」という名声で戦後再出発できたのです。

 それともうひとつつけ加えておくと、あまり書かれていないことだけど、満洲それから朝鮮は、間組とか西松建設とか鹿島建設とかの日本の土建会社の天国だったのです。なぜかかというと、ほとんど道路も橋も何もないところに日本の支配下で新しい道路をどんどん造り、鉄道も広げていったからですく。何のためかって、もちろんソ連と国境を接している満洲各地にむけて日本から朝鮮半島を経由して軍隊と軍事物資を迅速に動かせるようにするためです。朝鮮の鉄道線路を作ったのも全部日本の土建会社です。労働賃金が牛馬より安いと言われた現地の労働者を使って、日本の土建会社は儲けていたのですね。戦後の土建国家日本の原型が満洲や植民地朝鮮で作られていたのです。

◇国家総動員・総力戦体制

 それで、軍が第一次大戦以来追求してきた国家総動員を法的に定礎したのが、1938年に近衛内閣の時に第七三帝国議会で制定された「国家総動員法」と「電力管理法」だったのです。中心になって法案を起草したのは企画院の親軍的な革新官僚です。

 電力管理法は、特殊会社として事実上国営の日本発送電株式会社(以下「日発」)を創設し、五大電力会社を含む八百を超える大小さまざまな規模の現存する電力会社から、発電と送電の施設を個々の電力会社の所有のままその日発に供出させ、日本全体の発送電をその日発が担うというもので、事実上の電力の中央集権的国家管理です。その意味で、資本と経営の分離、そして経営権限の個別企業からの剥奪と国家全体のための経営という、革新官僚が描いた「疑似革命」は、電力産業では貫徹されたのです。

 もちろん、個々の電力企業は相当厳しく抵抗し、議会でも相当の議論があったのですが、電力が経済界全体にとって持つ重要性のゆえに、財界は個別資本の立場を超えて総資本の立場からこの電力管理法に同意したのでしょう。

 他方、国家総動員法について言うと、要するに経済活動に絶対的に必要とされる項目としての資金、物資、労働力から、軍と戦争にとって必要であると国が指定したものは、国が取り上げて自由に使うことができるようにする法律で、そのさい何が必要なものかということは、勅令つまり議会に諮ることなく天皇の命令で決めるというものです。

 結局この二つの法律でもって、資金(カネ)と物資(モノ)と労働力(ヒト)、そして電力(エネルギー)という国家の経済活動に必要なすべての要素を、議会も何も無視して国が、つまり軍と官僚が自由にできるようになったのです。事実上の全権委任法です。

 実際、国家総動員法にもとづいて、たとえば「国民徴用令」が勅令として制定されています。「徴兵」というのは国民一人一人に国が決めた期間、国が決めた戦場に兵士として行かせることですが、同様に「徴用」とは国が決めた期間、国が決めた職場で働かせることを言います。国民の職業選択の自由はなくなったのです。この徴用令はのちに植民地にも適用され、それが現在も問題となっている韓国の徴用工問題の発端なのです。

 この二つの法律は、第一に国家による経済統制の目的を明確に軍事に設定し、第二に統制の範囲を経済活動のすべての要素に拡大し、第三にそのために国家官僚の権限を圧倒的に強化させ、第四にその統制経済を暫定的なものではなく体制として恒常化させたのです。

 こうして軍と官僚にほとんど絶対的な権力が与えられたことになります。同じ年の11月に近衛内閣は「東亜新秩序」建設の声明を発します。日満支を一体として日本の自給圏にするという、のちの大東亜共栄圏につらなる侵略主義の宣言です。この近衛内閣におけるこの二つの法律の制定と対外侵略の声明が、丸山が「上からの」といった日本のファシズム体制成立のメルクマールと考えられます。すなわち、軍と革新官僚主導で国家総動員法と電力管理法が制定されたことによって、ファシズム体制が成立したのです。丸山自身はファシズム支配における国家総動員法や電力管理法の重要性に気付いていませんが。

◇軍事経済下の経済界

 国家総動員法は1941年3月に大改正され、政府の権限は大幅に強化され、この改正をもってその年9月に「重要産業団体令」が勅令の形で施行されました。そしてこれにもとづいて、東条内閣における商工大臣・岸信介の指導の下、「統制会」という形で統制経済が組織化された歩みを始めます。統制会は鉄鋼だとか造船だとかの「重要産業」ごとのカルテルで、それまでの自由主義的な経済機構を、「公益優先」と「指導者原理」の理念にもとづいて産業ごとに再編成するものです。「指導者原理」とは、合議制とか下からの意見を汲み上げるというのではなく、全権限をもつトップがすべてを決定するという、ドイツ・ナチズムの組織原理を指しています。

 こういう風な官僚指導の統制経済の行き方にたいして、経済界はどう対応したのでしょうか。当然、資本家サイドは、企業の利潤追求を否定するとか、資本家から経営の決定権限を剥奪するとはととんでもないと、初めはものすごく反発していたわけです。だけども、業界ごとの統制会のトップは企業サイドの推薦で決定するという形で折り合いがつき、財閥や大独占企業は国家と手を組んでいきます。統制会というのは、業種ごとに縦割りのカルテルを作り、関連する中小零細は大企業に従属する形でその下に入れられ、ものごとは全部トップダウンで決められるということですが、実際にはトップはほとんど全部大独占企業の社長とか重役が占めているわけで、結局、業種ごとに国と手を組んだ独占大企業が支配する態勢ができたということです。それが戦争中の経済だったわけです。

 そもそも軍需生産は大企業にとってものすごい大きなビジネスチャンスなのです。経済学的に堅苦しく言えば、資本主義の基本は、資本を投下して商品を作りそれを市場で販売して資本を増殖させることにあるわけで、その肝は要するに資本の増殖なのです。だから資本の増殖が保証されてさえあれば、市場は関係ありません。まさに軍需生産はそうなのです。通常の市場経済というのは商品を作ったって売れなければパーなんで、売るために努力しなきゃいけないし、作りすぎたら赤字がでる。しかし軍需産業では作ったら作っただけ国が買い上げてくれる。そのうえ戦時経済では、軍需産業には、税制面で優遇されているだけではなく、物資や資金や労働力も優先的に回してくれるわけで、これくらいぼろい商売はないのです。こうして財閥独占企業は、それぞれの統制会のトップに収まり、軍需生産に向かってゆきました。

 現実には、「統制会」自体は、行政の統制業務の代行という公的任務と、私企業の営利主義という内部矛盾を引きずっていたため、戦争経済の進展とともに十分には機能しなくなり、岸信介と商工官僚はそれに代わるシステムの検討を迫られることになります。

 こうして1943年、「軍需会社法」による企業の国家管理ということで、財界との合意に達します。つまり、企業ごとに「軍需会社」と指定されると、国の管理と指導のもとに置かれ、国の命ずる軍需生産に集中的に取り組むことを要求されます。その際「軍需会社」は、資材・労働力・資金を優先的に配分されるだけではなく、税制はもとより損失補償や補助金等でも優遇措置を受けることになります。そのため統制会の時代から軍需生産に取り組んでいた財閥独占企業は、軍需会社法以降は率先して「軍需会社」の指定を受け、ひたすら軍需生産に励み、そのことで膨大な利益を上げ資本蓄積を成し遂げていきました。たとえば1934年に三菱造船と三菱重工業が合併して資本金5500万円、従業員2万4000人で発足した三菱重工業は、敗戦時、1945年8月、資本金10億円、従業員40万人超のマンモス企業に「成長」していたのです。とくに太平洋戦争に突入してからの儲けは巨大で、44年1月に「軍需会社」に指定されてから45年8月の敗戦までのわずか20か月足らずの間に12もの工場を新設しているのです。

 しかしそのことは事態の半面、戦時経済の表面です。

 残りの半面、戦時経済の裏側では、国民は「贅沢は敵だ!」「欲しがりません、勝つまでは!」等のスローガンで耐乏生活を強いられ、そのため消費が強力に抑えられ、民需産業・平和産業の市場は極端に狭められていったのです。こうして民需産業・平和産業は最低限を残して、軍需産業への転業・軍需産業の下請けへと転換を迫られ、そうでなければスクラップされてゆき、労働者・従業員も軍需産業に行くように命じられていたのです。経済学者・中村隆英の書には「繊維をはじめ軽工業の設備は戦災よりも戦時中の企業整備――スクラップのために著しく縮小されていた」(『日本経済』p.143)とあります。

 結果を人口構成の変動で示しますと、1932年から44年までの間に、第一次産業(農林水産業)は約100万人減、第三次産業(商業・サービス業他)では約170万人減、他方、製造業では金属・機械・化学工業つまり重化学工業の全体は約470万人増、繊維をはじめとする製造業の他の分野(軽工業)では約120万人減、労働力の異常ともいうべき重化学工業への集中です(中村『「計画化」と「民主化」』p.17)。

 こうして軍事主導の日本の重化学工業化は、第一次大戦終了後よりほぼ四半世紀という短期間で、いびつな形で達成されたのです。

◇丸山ファシズム論批判

 結局、「日本ファシズムの第3期」というのは、レジュメに書きましたけども、国家総動員・総力戦体制構築、高度国防国家建設を目的とし、そのためにアジア諸国の侵略植民地化による資源の収奪と、国家主導の統制経済でもって日本の重化学工業化を目指す、その限りで技術的・経済的合理性に導かれた、軍中央と企画院および商工省の官僚そして財閥とによる独占的支配のもとでの国家改造運動の完成なわけです。これが丸山の言っている「ファシズムの完成」なるものの現実なのです。

 同様の見方をしておられる方の何人かの名前を書いておきました。山口定の「ファシズムは様々な意味で第一次世界大戦という戦争の落とし子であり …… 国際政治の唯一絶対目標を次の戦争に備えた《国家総動員体制》の確立に置いた運動である」。それから纐纈厚の「筆者はこれらの総力戦体制構築の過程の総体を日本ファシズムと称したい」。これが戦前の日本のファシズムだったのです。戦前には蝋山政道が「真の日本のファシストは《国家機構》による経済統制を企てた行政と軍の官僚である」と正確に指摘しています。

 それにたいして丸山は第2期までのファシズム、つまり右翼のテロリズムと青年将校の非合法急進ファシズム運動しか見てないから、日本のファシズムは前近代的で反近代的で反都会的で、農本主義的思想をおびていると語り、だから真のインテリはファシズムを嫌悪し「明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹した」と言っているのです。

 だけど、これは現実ではありません。それは、基本的には「戦時下の日本の帝国と言うものが、近代性の未熟さからきているという通説的理解」とルイーズ・ヤングが『総動員帝国』(p.269)で指摘した理解にもとづく判断なのです。実際には日本のファシズム体制の完成は、ジャニス・ミムラの言っているように「総力戦を推進する将校、新興財閥、革新官僚が抱いた技術主義的なヴィジョンと戦略には、新しくて現代的な発想が垣間見られた。彼らの自由主義批判は近代性の拒絶でも、反動的な過去への回帰でもなく、むしろ本質的に現代主義的な行為だった」(『帝国の計画とファシズム』p.58)と理解できます。

 つまり丸山真男が「軍部と官僚、財閥との抱き合い体制が強化され〔て〕」到達した「ファシズムの〈完成〉形態」と語ったものは、なるほど天皇制・国体論にもとづく全体主義でもって国民統合をはかり、治安維持法を法的根拠にした上からの特高警察と憲兵隊による、他方で底辺での隣組(部落会・町内会)組織における監視・密告体制による、共産主義者、社会主義者はもちろん、自由主義者、平和主義者、反戦主義者を社会的にも精神的にも肉体的にも徹底的に弾圧し抹殺しようとしたきわめて野蛮な、そのかぎりでは前近代的で非合理的な強権的支配体制でした。しかしそれは事態の半面なのです。

 重要なことはその政治支配体制のもとで何がなされていたのか、つまり「軍部と官僚、財閥との抱き合い体制」が何をなしていたのかにあります。現実に行なわれていたのは、国家総動員法と電力管理法にもとづいて国家の資金と労働力と物資と電力つまり経済活動に必要なすべての要素を「合法的に」手中に収めた軍と官僚のテクノクラートと財閥独占資本が、総力戦として対外戦争を貫徹するための戦争経済・軍需生産の拡充を追求していたのです。いずれにせよ、国家経済に明確な目標を設定しそこに向かって官僚が意識的に指導する統制経済では、技術的かつ経済的な合理性・計画性が最大限に追求されていたのです。アーロン・モーアの書には「テクノファシズムとは、技術的な合理性と総合的計画、生産性や効率性についての近代的価値観が、民族的なナショナリズムと右翼的な有機体論のイデオロギーと融合したものである」とはっきり書かれています(前掲書 p.257)。

 「ファシズムは反動的方向に於いて近代化を推進した」と言ったのは、ユダヤ人歴史家ワルター・ラカーです(『ファシズム 昨日・今日・明日』p.74)。この点については、米国人研究者アンドリュー・バーシェイの次の指摘は引いておく価値があるでしょう。

 正直いって、丸山の分析は二点において欠陥がある。第一、それはテクノクラートの役割を無視している。第二に …… 丸山は「反動的近代主義」を分析しそこなった。そういった分析がなされていれば、「上からのファシズム」という彼の洞察には、そこに多分に欠けていた知的内実が付与されたことであろう。(『近代日本の社会科学』p.262)

 そうなのです。問題はファシズムの「前近代性」やその「非合理性」なのではありません。「目的合理性」は、「戦争貫徹」という目的そのものの妥当性・正当性は問わないという根本的な欠陥を有していると同時に、設定した目的にそぐわない部分を、個人であれ企業であれ切り捨て、時に抹殺するのであり、「技術的合理性」もまた、その合理性ゆえに弱者を見棄ててゆく、そのような「近代性」や「現代性」あるいは「合理性」自身が持つ抑圧性であり非人間性にこそ、ファシズム、テクノファシズムの問題があるのです。

 そのことを踏まえたうえで、現時点で問題とすべきは、その「近代性」や「合理性」のゆえに、当時の少なからぬ知識人や左翼がテクノファシズムの現実的展開、とりわけその経済政策に好意的に向き合い、ときに共感し、同伴し、協力さえしていたことにあります。そしてこのことについては、丸山は一切語っていません。
ジャニス・ミムラは語っています。

 戦後の進歩的知識階級や社会主義政治家が、〔戦前に〕左翼がファシズムと結託しその理念に魅力を感じていたことを認知したがらない事実は、日本の戦争責任をめぐる議論においていまだ十分に追及されていない重要課題であろう。(『帝国の計画とファシズム』p.270)

 ともあれ、再生産過程に何等寄与することのない軍需生産を基軸とする経済が、まして大部分の資源を海外の占領地区に頼っている日本では、いくらその犠牲を民衆に押しつけても、長続きするわけはありません。かくして1945年8月、日本は敗戦を迎えます。戦争経済とファシズム支配の終焉、革新官僚による「疑似革命」の破綻です。

◇戦後の出発点 ―― 戦争経済の遺産

 さて、戦後の話に入ります。
 アジア太平洋戦争は、最終的にはたしかに日本の経済を破綻させました。しかし戦後の復興、とりわけ経済復興にとっては、人材や組織や人脈においても、そして制度や施設等においても、さらにはモノの見方や考え方においても、残され引き継がれたものは決して少なくはなかったのです。もちろんその影響は、プラスにかぎりません。マイナスのものも多くあります。

 戦争が終わって軍は解体させられたけれども、官僚機構は事実上残されていたのです。戦時下のテクノファシズムの中心的担い手の商工省と企画院、のちの軍需省は、その過程で極めて大きな権限=権力を獲得していったのですが、その権限が戦後は通商産業省(通産省)そして経済企画庁(経企庁)にひき継がれていたのです。現在も行政の権限があれだけ強いというのは、戦前の遺産なのです。それをプラスと見るかマイナスと見るかは、立場によるでしょう。

 敗戦直後からの経済復興は、レジュメの5枚目に書いておきましたけど、ひとつには1945年~51年の、ともに米国の軍事費から支出されている総計18憶ドルのガリオア基金(占領地救済基金)、エロア基金(占領地域経済復興基金)、そしていまひとつには1946年に閣議決定された、官庁の指導により石炭そして鉄鋼生産を重点的に進めるという傾斜生産方式として始まっています。この傾斜生産のやり方は戦前の統制経済の文字通りの延長です。そのことは戦争中に統制経済を指導した学者や官僚たち、テクノクラートたちが、戦後も支配的な地位にいたことを示しています。だから戦後の日本が、すべてが失われた焼け野原から立ち上がったというのは現実ではありません。大体からして、軍事経済の中で三菱とかそういう財閥独占企業が蓄積した膨大な生産設備の多くは残っていたのですよ。実際、経済学史の書には「戦争中に急速に進められた重化学工業化が、戦後産業の基調となった。重化学工業では、一般に残存した生産設備が1937年当時よりも多かった」(中村隆英『「計画化」と「民主化」』p.36)とあります。

 他方で、軍国日本の解体と日本の民主化として始まったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)―― 実質米国 ―― の占領当初の対日政策は、1949年の中国における共産党政権の成立と50年の朝鮮戦争の勃発によって米国が即冷戦体制に入ったことで、方針がガラッと変わって、日本をアジアにおける対共産圏前進基地の役割を負わせる方向に急転換しました。そのため、それまで賠償としてアジアの諸国に引き渡されるためにGHQが差し押さえていた軍需産業設備そして重工業の生産施設はもとの企業に返還され、日本は米軍にとって朝鮮戦争の兵站基地とされたのです。1950年から3年半にわたる朝鮮戦争の特需で日本の企業には30億ドル入っています。この朝鮮特需は日本の資本主義にとっての「天佑」でした。こうして日本の資本主義は息を吹き返したのです。戦時下の酷使で老朽化していた日本企業の生産施設は更新され、その後の発展の足場を構築することになりました。実際、たとえばトヨタ、日産、いすずは、戦時下で国防を目的とした自動車製造事業法の恩恵をうけて育まれた企業ですが、米軍特需によるトラックの発注がこの三社を蘇らせ、その後の日本の自動車産業の発展をもたらすことになったのです。

 それで1952年にサンフランシスコ条約で、沖縄や小笠原その他を除いて日本は独立し、55年ぐらいから日本の高度成長が始まります。そうすると、戦後日本は平和日本として再出発を始め、平和主義に徹することで高度成長を成し遂げたというのは、言葉通りには受け取れないことがわかります。実際には沖縄がアメリカの軍事政権の支配下にあって、そのため日本本土は経済に専心することができたのであり、朝鮮半島では大国である米国と中国も加わって南北に分れて戦争をしていたおかげで、日本はボロ儲けして高度成長への足掛かりを得ることができたのです。

◇賠償は「戦後版植民地政策」

 日本の支配層にとって、「政治的独立」につづく重要課題は当然「経済的自立」です。サンフランシスコ条約で「政治的独立」をはたした吉田内閣の後の鳩山内閣は、1955年、重化学工業化を目的とした「経済自立五ヶ年計画」を閣議決定します。この時期、国内民衆の購買力がいまだ脆弱な状態での経済成長にむけての日本経済のあらたなる展開は、「賠償」という形での東南アジア地域への再進出だったのです。

 戦前、日本経済において重要な位置を占めていた満洲、台湾を含む中国や朝鮮を帝国の敗戦によって「喪失」した状態では、これに代る商品市場と原料資源供給地の確保が日本の資本主義には求められていたのであり、それぞれ独立を果たしていた東南アジア諸国が重要視されるに至っていたのです。日本の資本主義が復活するにはアジアの諸国との経済関係が構築されなければならない、というのが日本の資本主義発展の絶対的条件だったのです。

 しかしそれらの諸国は、アジア太平洋戦争の過程で日本の軍隊が蹂躙した地域であり、それからまだ何年も経ていない50年代には、もちろん反感もあれば疑惑や警戒心も強く、そこで考えられたのが「賠償」を名目としての「進出」なのです。

 レジュメに「賠償」についての当時の通産省官僚の見解を書いておきました。

 東南アジアの新興諸国は経済協力の観点から見れば最も魅力に富む処女地である。しかしこの処女地には、排外的ナショナリズムや日本の侵略に対する疑惑の念などという強風が吹きすさんでいる。その中に安全に乗り込むためには賠償という大義名分と結びつけるより以上の良策はないではないか。(太字強調は山本による)

 こんな風に露骨に言っているのです。これは1957年ですけど、すでに54年に当時の首相で反共主義者の吉田茂が、「賠償は一種の投資である。賠償において東南アジア経済開発に協力できるならば、共産主義の浸透防止に伴い、一石二鳥の効果がある」とあからさまに語っていました。財界にとっても、政治家にとっても、そして官僚にとっても、戦争中に日本軍が侵攻し占領した国への「賠償」なるものは、「つぐない」ではなく、日本資本主義のアジア再進出の露払いなのでした。

 そんなわけで日本のこの賠償支払いは、つねに経済協力や経済開発借款と抱き合わせで実施されたことを特徴としています。その意味での「賠償」を積極的に進めたのは、1957年に成立した岸信介政権です。岸は、戦前、「満洲国」での産業開発五ヶ年計画を指導したことで名を挙げ、帰国後、軍と官僚によるテクノファシズムとしての国内で統制経済を推進しています。そして岸は、東条内閣のもとでの商工大臣として、つまり閣僚の一員として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として逮捕されたが、なぜか起訴されることなく放免され、腹心の椎名悦三郎や物資動員計画を指導した大蔵官僚・賀屋興宣とともに政治家に転身し、保守合同下での自由民主党の中枢に収まっていたのです。

 その岸が戦後、日本の首相として積極的に進めたこれ等の「賠償」は、端的に「戦後版植民地政策」だったのです。賠償や経済協力としての道路や橋梁やダムや発電所の建設は、主要には日本の資本、日本の企業のその後の活動のためのインフラ建設で、そのことは、復活途上にあった日本の製造業および土建業をおおきく潤すことになったのです。戦前に植民地で稼いでいた建設業者は、戦後もアジアの諸国で「活躍」しているのです。

 実際の賠償、あるいは経済協力は、現地にどんな効果をもたらしているのでしょうか。そもそもその相手国の多くは独裁国家、「開発独裁」と言われる国家です。フィリピンのマルコスだって、インドネシアのスカルノ、それからスハルト、そして南ベトナムのゴ・ジン・ジェム、すべて独裁政権です。そして日本からの賠償や開発援助は、なによりもその独裁権力をより強化させることになり、権力者や一部の支配層を潤すことになったでしょう。当然裏金も動いているでしょう。たとえばマルコスなんか、日本とのかかわりで膨大な金を得て、私腹を肥やしています。もちろん関連した日本の商社も儲けているでしょう。このように日本の賠償や援助は、支配層の一部にたいしては、政治的にも経済的にも大きく潤すことになったけれども、一般の大衆には、差しあたっての恩恵はあまりなかったのです。それどころか、被害さえもたらされています。東南アジアの諸国には少数民族が多いんですよ。そういう少数民族の多くは、自然に囲まれて、それまで何世代にもわたって受け継がれてきた生活様式や独自の文化をそれぞれ守っていて、それなりに安定した生活が成り立っていたのですね。ところが、開発援助という名目でダムを作るとか道路を造るとなると、往々にして自然環境が破壊され、それどころか場合によっては立ち退きを迫られたりするわけで、それまでの生活基盤と生活様式が破壊され、時には共同体が崩壊し、都会に出てスラムに住む最底辺の労働者になったりすることもあるわけですよ。

 レジュメに書いておきましたけども、中野敏男さんっていう人の『継続する植民主義の思想史』には、戦後のこういうふうなアジアに対する賠償とか開発協力というのは、実際はほとんど戦前の植民地支配の焼き直しであって、日本の資本主義が儲けるための手段なのだということが、くわしく説得的に書かれています。そういうふうにして、日本の資本主義は復活していったわけです。

◇そして高度成長へ

 敗戦で軍は崩壊しましたが、軍と手を組んで戦時統制経済を指導したテクノクラート官僚の人脈と肥大化された権限は戦後も日本の支配層に残されていたのです。軍と手を組んだ財閥大企業もそうです。

 三菱重工業は、戦時下でひたすら戦艦と戦闘機を作り続けて、敗戦にいたるまでの十年余りの間に日本最大の軍需産業に成長し、全国に多くの工場・事業場を建設していました。それらの施設で、戦争で破壊されたものももちろんありますが、敗戦時に残されていたものも少なくはなく、技術者も各施設に分散して温存されていました。

 戦前1934年に三菱重工業誕生のときの筆頭常務であった郷古潔は、三菱重工を日本の軍需産業の中核に押し上げ、1941年に社長に昇格し、43年には東条内閣の顧問に就任し、敗戦にいたるまで戦艦、軍用機、兵器の生産を指導し続けていました。敗戦後、1945年12月には郷古は戦犯に指名されて逮捕されましたが、はやくも翌46年の4月には釈放され財界への復帰を果たしています。そして朝鮮戦争勃発・軍需産業復活とともに、兵器産業の振興を目的に1951年に創設された兵器生産協力会(のちの日本兵器工業会)の会長におさまり、以後、戦後の軍需産業復興を牽引していったのです。

 もちろん戦時下で軍事研究に携わった研究者や技術者はほとんどすべて生存していました。軍事研究に関わっていれば、兵隊にとられることはなかったのです。彼らは戦争責任を問われることなく、大学や企業に復帰してゆきました。戦後生まれのソニーは、戦争中、軍事研究としてのレーダー研究を進めていた海軍技術研究所の人脈より生れました。

 戦時下、軍事研究推進のための人材養成を目的として対米戦争勃発の翌年に急遽形成された東大第二工学部は、戦後は生産技術研究所として高度成長を牽引し、そしてその第二工学部で教育を受けて育った技術者たちは、それぞれ、高度成長の重要な戦力となりました。ジャーナリストの手になる1987年の書には書かれています。

対米戦争遂行のために生まれた東大第二工学部は、戦後は一転して〝戦犯学部〟と呼ばれ、廃止の運命を辿らざるを得なかった。その〝戦犯学部〟の出身者たちが、全壊、半壊の工場に散って、技術の再興と新技術開発にチャレンジし、いまや日本技術軍団のリーダーとして、アメリカの企業と食うか食われるかの〝サバイバル戦争〟を戦っているのである。(今岡和彦『東京大学第二工学部』 p.11)

 日経連は、1953年に経済的自立を達成するためには「生産に国民の総力を結集し、耐乏生活によって資本を蓄積し、企業の合理化によって対外競争力を強化する」必要があると訴えていたのです(武田晴人『高度成長』p.36)。戦前の国家総動員・総力戦体制構築にむけての軍の訴えにおける「対外戦闘力」を「対外競争力」に置き換えただけではないでしょうか。戦前の全体主義・軍国主義のイデオロギーがそのまま「企業と国家に献身する」産業戦士におき換えられただけと言えます。ここに描かれている「東大第二工学部」卒業生の軌跡は、そのことを印象的に示しています。

 戦後日本の復興から高度成長への過程は、戦後版の総力戦だったのです。 アジア太平洋戦争期における、生産力増強を唯一最大の目的とし、そこに向けて大衆を一斉に動員した総力戦体制も、その後の高度成長期にいたって「高度国防国家の形成」にかわる「高度成長・国際競争」をスローガンとする戦後に継承されることになったのです。

 「高度成長の象徴」とされる東海道新幹線も、たずさわった技術者の多くが戦時下の軍事研究に従事していたことが知られています。実際、戦争中に軍の研究機関で働いていた技術者・研究者の多くが、戦後、鉄道技術研究所に移籍していたのであり、戦争中の研究成果が新幹線開発に全面的に転用されたのです。そもそも、東海道新幹線計画それ自身が、戦時下の大陸侵攻の為の東京―下関を結ぶ「弾丸列車」計画の継承なのです。JR東海の社長・須田寛の書には「「弾丸列車」計画で着工されたトンネルや買収済用地のほとんどが、新幹線計画で活用され、新幹線の早期完工に大きく寄与することとなった」とあります(『東海道新幹線三〇年』p.16)。軍には逆らえない戦時下ゆえ、軍の計画による用地買収は現在と比較にならないほど容易だったのでしょう。東海道新幹線を戦後20年足らずで完成させることのできた背景です。

◇通産省と高度成長

 先に述べたように、官僚機構は、敗戦後、内務省をのぞき事実上温存され、民に対する官の上位ももちろん保たれていました。とくに戦時下の統制経済の過程で大きな力をつけた商工省は、太平洋戦争中は軍需省として絶大な権力を獲得し、敗戦直後には目立たぬよう商工省に戻し、第二次吉田内閣で通商産業省と名を改めて生き延び、戦後版の総力戦つまり戦後の経済復興そして高度成長の過程であらためて大きな力をふるうことになります。その権力行使の一例として、産業公害にたいするかかわりに触れておきます。

 先に戦前の日本窒素肥料株式会社の子会社・朝鮮窒素肥料株式会社の1930年代における隆盛を語りましたが、戦後、新日本窒素肥料株式会社(「新日窒」、現チッソ)と改名した同社は、その朝鮮での実績により、1950年代には日本の化学工業の最先端に位置していたのです。アーロン・モーアの書には書かれています。

植民地期朝鮮の興南における巨大化学複合体において獲得された専門知識を利用していた日本窒素肥料株式会社は、戦後日本政府が(プラスチックなどの産業素材が必要とされる)大衆消費社会を創出するために必要な要因に関心を持ち始めた後、日本の重化学工業やその後に国策となる石油化学製品のメーカーとして再登場した。植民地から帰国した重役や技師は新日窒の上層の経営陣に舞い戻り、1950年までに日本の重化学工業における「総本山」として返り咲いた。(前掲書p.313f.)

 そのチッソの水俣工場が日本の最悪の公害・水俣病の発生源になったことは、今ではよく知られています。その公害拡大過程で通産省が果たした役割を見ておくのも、戦前からのつながりを見るうえで無駄ではないでしょう。1947年経済安定本部内に設置された資源委員会が49年に「水質汚濁防止に関する勧告」を提言していました。この勧告にもとづいてしかるべく「法律が制定されていれば、水俣病もイタイイタイ病も有効に規制されえた」と言われています。しかし勧告は、その後、工業界や通産省からの強い巻き返しにあい、骨抜きにされてしまったのです(佐藤仁 『持たざる国』の資源論』pp.115,184)。

 早くも1953年には、水俣湾周辺の漁村で多数の猫の死が見られ、原因不明の中枢神経系疾患の患者の発生が確認されるようになり、その後、熊本大学の原田正純らの研究班が何年もかけた慎重な調査と研究を踏まえ、原因をチッソからの廃液中の有機水銀と突き止め発表しました。これが1959年です。その年、食品衛生調査会は「水俣病の原因は港周辺の魚介類中の有機水銀」と厚生大臣に答申しています。しかし時の通産大臣・池田勇人が「結論は早計」と反論したことで閣議決定にいたらず、その結果、その後もチッソは有毒廃液を垂れ流しつづけ、60年代をとおして新規患者が爆発的に増えつづけたのです。通産省内部では、チッソの廃液を止めたほうが良いのではというような意見は、「これだけの企業が止まったら、日本の高度成長はありえない」というような声に押しつぶされたと伝えられています(NHK取材班『戦後50年 そのとき日本は Ⅲ』)。

 公害が大きな社会問題となった60年代末、水俣病、新潟水俣病、富山イタイイタイ病、そして四日市公害つまり四日市の大気と海洋の汚染が四大公害訴訟として戦われました。

 その四日市公害訴訟の被告企業は三菱油化、中部電力そして石原産業です。石原産業は、戦前マレー半島で鉄鉱山を見出して「時局産業」に成り上がった企業で、四日市に君臨し、戦後に通産省がもと海軍工廠跡地にコンビナートを建設するにあたって、航空機のエンジンなどで重要なチタンの国内最大メーカーとして、三菱油化などならんでその一角を占めるにいたったのです。そのチタンの製造にあたって、チタン鉄鉱に含まれる余分な鉄分を除去するために使われる濃硫酸を、石原産業は排水溝から四日市港に直接大量に垂れ流していたのです。「公害Gメン」とよばれた海上保安庁の田尻宗昭が、この件を捜査する過程で通産省に資料の提供を要求した時、通産省は「企業のイメージダウンにつながるようなことには手を貸せない」と言って、拒否したのです(田尻『公害摘発最前線』p.42)。

 これらはもちろんほんの一例ですが、これらの例は、戦後の高度成長にいたる過程で、通産省は、その前身である戦前の商工省=軍需省がテクノファシズムの過程で有していた力をなお有していたこと、その立場はつねに工業界と企業サイドにあったことわかります。そして戦時下の商工省が、「高度国防国家」の建設をめざし、総動員体制での軍需生産拡充をただひたすら追求したように、通産省は、「国際競争・高度成長」をスローガンにして、戦後版の総力戦態勢でひたすら生産力の拡大を追求してきたのです。

◇電力の国家管理をめぐって

 電力国家管理について言うならば、日本帝国の敗北と連合軍による占領で、日本発送電株式会社(日発)による民有国営の電力管理体制は、戦後ひとたびの終焉を迎えることになりました。日本の軍事力の解体と民主化を進めていたGHQは、日発に体現されていた電力の一元的国家管理はもっぱら戦争遂行・軍需産業育成のためのものであったとして、1950(昭和25)年にポツダム政令「電気事業再編成令」の公布でもって電力国家管理は終了させられ、翌51年に日発は解体されました。

 しかしエネルギーの中央集権管理を意味する戦時下の電力国家管理は、戦後の電力行政にもそのいくつかが引き継がれることになります。たとえば日発の下にあった九つの配電会社は、戦後に地域完全独占企業としての九電力体制(のちに沖縄をいれて十電力体制)へと引き継がれています。戦前の革新官僚はたしかに電力生産体制を「変革」したのです。そして、戦後、通産省に生まれ変わった商工省は、核開発、原子力発電の推進において、エネルギー一元的管理の権限を取り戻すことになります。戦時下の電力「民有国営」路線は、戦後の通産省そして経産省の核政策・原発推進における「国策民営」の原型なのです。

 ちなみに占領下の財閥解体で三分割されていた三菱重工が戦後に復活したのも、原子力発電への取り組みの過程でした。三菱重工業の社史『海に陸にそして宇宙に』には日本の原子力開発の取り組みの始まった頃について書かれています。

このころは〔分割された〕三菱三重工時代で、三社がいずれも原子力開発利用の研究に着手しており …… 原子力関係の機器の開発、設計、製作に取り組んでいた。/こうして、電力会社による商業用原子力発電所の導入計画が進められていた時期に三重工合併が行われ、…… 本格的な原子力プラントへの取り組みを開始した。(p.608)

 通産省・経産省による日本の原子力開発の第一の目的は、原子力産業の育成にあると見られていますが(拙著『核燃料サイクルという迷宮』 p.127f.)、それは戦前の商工省による軍需産業育成の再現なのです。こうして戦争中に軍需産業として成長した日立・東芝・三菱が戦後に日本原子力産業のビッグ・スリーとして確立されてゆきました。一国に世界的企業としての原子力企業が三社もあるのは日本だけです。日本は原発大国なのです。

*     *      *
 これまで日本のファシズム批判は、戦前期日本ファシズムの治安維持法にもとづく野蛮な政治支配や、建国神話や国体論を軸としたイデオロギーにまつわる前近代性と時代錯誤、そして反近代的で権威主義的な精神主義を主要に問題とし、弾劾してきました。しかし、テクノクラート官僚が力をもつテクノファシズムとしての日本ファシズムのもつ今一つのそして中心的な側面、すなわち国家総動員・総力戦体制構築による高度国防国家の建設を目的とする統制経済については、その技術的合理性や経済的合理性のゆえに、戦前、左翼も含めた多くの知識人は、むしろ日本社会に残存する前近代性を克服するものとして、好意的に受け取り、共感し、積極的に協力さえしてきたのです。

 結局、国家による日本の重化学工業化と生産力拡充にむけた経済政策と、それをつらぬく科学技術の絶対視は、ほぼ無条件に肯定されていたのであり、たとえ全体主義・中央集権主義や軍事優先思想と結びついたものであれ、批判の対象とはされなかったのです。

 敗戦で軍が解体されて後も、官僚機構はほぼ無傷で残され、戦時経済においてひたすら工業生産力の強化とりわけ軍需産業の拡大を目指してきた戦前の商工省=軍需省の生まれかわりとしての戦後の通商産業省=経済産業省は、戦後の復興から高度成長にいたるまで、戦後版総力戦としてただひたすら国際競争の勝利と経済成長をめざし、同様に科学技術の絶対視にのっとって生産力の拡大を追求し、原子力開発をも領導してきたのです。

 その背後にあるのは、結局のところ、科学技術の発展と成長経済の持続がすべてを解決するであろうという期待、より正確には幻想だと思われます。それは、ひとたび日本を破滅に導いた戦前のテクノファシズム思想の戦後的継承と言えるでしょう。

 これまで三度ほど触れたアーロン・モーアの2013年の前掲書は、末尾に語っています。

戦時期に淵源を持つ技術と結びついた非民主的遺産を理解し向き合うことは日本の二一世紀の困難を乗り越えるうえで大きな可能性をもたらすであろう。慢性的な不景気や原子力に過度に依存した危険なエネルギー政策、継続する支配的かつ強固な官僚制度、真の意味での地域の能力を養成することに失敗した海外での開発援助などの諸問題の根源は、日本という国家とそこに連なる者たちが長期間にわたる発展途上国の貧困解決策は技術であると訴え取り組み続けたことにあるのだから。(p.317)

 問題は、戦後の高度成長期まで持ち越されてきたのです。地方を犠牲にして中央集権的に進められた戦後成長戦略に対する批判が、科学技術そのものにたいする批判として問われたのは、ようやく1960年代末期です。そして2011年の東京電力福島第一原発の事故で、あらためて決定的に問い直されることになったのです。

後記
 以上は、2025年10月5日の集会『敗戦80年、何が変わったか』(10.8山﨑博昭プロジェクト主催、於ける大田区萩中集会所)で小生がおこなった1時間余りの講演「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」をあとから整理したものです。

 講演そのものは、やや準備不足であったのと、時間的制約があって若干焦ったり尻切れトンボになったりで、まとまりが悪く、またかなり聞き苦しく分かりにくかったのではないかと思われるので、文書化にあたってかなり訂正し加筆しました。なお人名については、すべて敬称を略させていただきました。ご了解ください。

 小生の聞き苦しい講演の音声記録から正確に文書記録に起こしてくださった山中健史氏に厚く御礼申し上げます。

2025年11月22日    山本義隆



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